Afleveringen

  • コリント人への手紙第二5章17節

    「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

     今月初めに沖縄にやって来た台風6号によって、ベランダに置いてあった私たちの家の古い物置が壊れてしまいました。物置の中には、古いアルバムや子どもたちが小さかった頃に書いた絵やノートなどがあり、その一部が水浸しになってしまいました。大切にとっておいたものが一部修復不可能になってしまったことは大変残念でしたが、誰もケガすることなく守られたことは大変感謝なことでした。

     日本では地震や台風や豪雨による自然災害がつきものですが、先日はハワイのマウイ島で大規模な火事が発生し、カナダでは現在も山火事が起きていて懸命な消火活動が続けられています。そのような災害が起こる度に、そこの住民が大切にしてきた家や車などがなくなってしまい、私たちは心が痛みます。被災された方々が一日も早く生活を建て直し、日常を取り戻すことができるようにとお祈りいたします。 

     このようなニュースを見聞きして思うことは、私たちが手にしている物や財産はすべて一時的なものに過ぎないことです。事実として、仮に自然災害に遭わなかったとしても、形あるものは必ず消え失せてしまうのです。過去に多くの文明が興っては一時的に栄華を極め、圧倒的な政治力や軍事力で世界を席巻しましたが、すべて衰退し歴史の中に埋もれて行きました。すべてのものは古くなり、この世界からなくなってしまいます。

     しかし聖書によれば、古くならず、新しくされるものがあるというのです。それはキリストにある命です。形あるものはすべて古くなって消えていくわけですが、それは人間も同様ですね。私たちは日々年を重ね、からだの機能は徐々に低下し、死に近づいていきます。しかし、今日の御言葉には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」とあります。イエス・キリストと出会い、イエスが主であり救い主であることを心に受け入れたならば、その人は新しくされるというのです。顔かたちが変わるわけではありません。しかしその人の魂と霊はまったく作り変えられているのです。私たちの生まれながらに持っている人格は、罪によって滅びゆく運命にあります。しかし、イエスキリストが十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださり、私たちの罪の代価をすべて支払ってくださいました。私たちはイエスを信じ受け入れることで、罪の赦しを確かなものとし、全く新しくされた魂と霊によって生きるのです。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書かれているとおりです。この新しいいのちは永遠の命です。もはや古くなることも、消失してしまうこともなく、やがて私たちがいただく復活のからだと一つとなり永遠に続くものです。

     私たちはやがて古びてなくなってしまうものに心を奪われ、それらに大切な人生を委ねるべきではありません。それらは地上での私たちの生活を一時的に豊かにしますが、やがて消え失せるのです。何一つ天国に持って行けません。いつまでもなくなることのない、最高に価値のあるものに心を向けましょう。イエスを受け入れて全く新しいいのちをいただき、永遠に向かって歩み続けましょう。

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  • コリント人への手紙第二5章10節

    「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」

     今月、小禄バプテスト教会の日曜礼拝では、神の裁きということについて御言葉から学んでいます。裁きという言葉はイメージ的になんとなく怖い感じがあるかもしれません。自分が裁かれるということに対して嬉しいとか、待ち遠しいとかの感情は普通持たないのではないでしょうか。しかし、聖書は創世記から黙示録に至るまで、裁きについて繰り返し語っています。あまり触れたくないテーマだからといって、真理をぼやかすというようなことがないように気をつけたいものです。

     今日の御言葉は、パウロが明確に私たちが受ける裁きについて語っている個所です。幾つかのポイントがありますので、一つ一つ見てみましょう。まず、私たちが行ったことは善であれ悪であれ、すべて裁きの対象になるということです。普通は悪いことが裁きの対象になると考えがちですが、実は良いことも裁きの対象になるのです。このことから神の裁きの一つの性格が分かります。つまり裁きというのは、私たちに対する神の評価の側面があるということです。二つ目に、報いを受けるために裁かれるということです。この報いというのは報酬とも言い換えることができます。報酬は罰則とは真逆のもので、良いことに対する評価として与えられるものです。終末における神の裁きは、私たちを懲らしめたり刑罰を与えるだけでなく、ご自身の無尽蔵の富の中から私たちに贈り物を下さる時でもあるのです。イエスはマタイの福音書25章の中で、主人が遠い町に出かけている間、預かったお金で商売をして富を増やした僕に対し、「よくやった。忠実な良い僕だ。」とその労をねぎらい、報酬を与えるというたとえ話をしました。これはまさに神の裁きについての描写なのです。3番目に、私たちが立つべき裁きは、キリストの裁きの座であるということです。裁かれる方はキリストです。最初に「私たちはみな」とあるように、一人の例外もなく全員がキリストの裁きの前に立つことになります。先ほどのマタイ25章のたとえ話で、主人が僕たち一人一人に、何をしたかを丁寧にチェックしたように、イエスは私たち一人一人が地上にいる間なしたすべてのことをチェックされるのです。

     ところで、今日の個所では私たちは「肉体においてした行いに応じて」裁かれるとあります。これは私たちが恵みにより、信仰によって救われるとするキリスト教の最も大切な教えと矛盾していると感じる人もいるかもしれません。確かに私たちは信仰によって救われるのであって、行いによって救われるのではありません。実は、今日の御言葉は、神はすべての人を裁かれると言っていますが、すべてを救われるとは言っていません。救われるか救われないかは信仰によりますが、裁きの基準には行いも関係してくるのです。そしてやがてイエスが来られるときに私たちがいただく報いは、私たちが信仰を用いてどれだけ神のために正しい行いを行ったかによって決まるのです。本当にイエスを心から信じイエスに従うことを願っているなら、それは行いに現れるはずです。イエスはそれを私たちに期待しておられます。天においてイエスと共に報いを喜ぶことができるように、今という時を用いていきましょう。

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  • コリント人への手紙第二4章17-18節

    「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」

     この世界には目に見えないけれど存在しているものがたくさんあります。むしろ科学的に言えば、私たちの肉眼で観察できるものは全体のごく一部に過ぎません。というのも、私たちの目が感知できる光は可視光線と呼ばれるごくわずかな範囲の波長の光だけです。それより長い波長の光や短い波長の光は、肉眼では捉えることができないのです。ですので、自分の目で見えるものしか信じられないという人がいれば、その人は宗教がどうこうという前に、科学を知らない人ということができるでしょう。目で見えるか見えないかは、この宇宙の中で起きている数多くの現象の中では、全く意味をなさない議論なのです。

     今日の御言葉は、時空を超えた視点で物事を捉えているという点で、とても科学的です。私たちはクリスチャンであるなしに関わらず、苦しみを経験します。苦しみのただ中にいる時は、その苦しみが永遠に続くかのように感じられるときがあります。あまりにも辛すぎて早く過ぎ去ってほしいと心から願います。愛なる神はもちろん私たちを苦難から解放することがおできになりますが、その苦難からの解放ということ以上に大切な真理を私たちに教えておられます。それは、私たちが経験する苦難はほんのひと時に過ぎず、やがて私たちが経験することになる神の栄光と比べると実に軽いものだということです。この苦しみはいったいいつまで続くのかと思うようなものでも、永遠に比べればほんの一瞬に過ぎないのです。これが神の視点です。

     もう一つの大切なことは、目に見えるものではなく見えないものにこそ私たちは目を留めるべきであるということです。先ほど目に見えないものがいかに多いかという話をしましたが、実際本当に大切なことの多くは目で見ることができません。聖書にはいつまでも残るものは信仰と希望と愛であると書かれていますが、この3つはすべて目に見えないものです。ところが、私たちはあまりにも目に見えるものに心を奪われ、そのようなものに無駄な時間や労力を費やしています。また自分が人の目にどう映るのかということをあまりにも気にし過ぎています。どんなにアンチエイジングを頑張ったところで、私たちの肉体は日々衰えていくだけです。私たちが本当に心を向けるべきは、目に見えないものであり、永遠なるものです。今日の御言葉に「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」とある通りです。あなたは何に人生を掛けていますか。何に最も自分のエネルギーを注いでいますか。それはやがて消え失せてしまうものですか。それとも永遠に続くものですか。

     神は私たちにイエス・キリストを通して永遠の命を与えておられます。2000年前にゴルゴタの丘の上で私たちの罪を赦すために十字架に掛かられ、死んで墓に葬られ、3日目によみがえられたこのイエスを心から信じる者は誰でも永遠の命を得ることができるのです。

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  • コリント人への手紙第二4章6-7節

    「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」

     聖書によれば、人間は他の動物たちと違って神が土のちりから形作られました。さらに人間には他の動物にはない特徴が二つあります。一つは神の形に似せて作られたということ、もう一つは、神の息が吹き込まれたということです。神のかたちに似せて造られたということは、物理的な姿かたちのことではなく、精神的、道徳的、社会的に神のような一面を持ち、神の栄光を表すものとされたということです。また、神の息が吹き込まれたということは、人が神を意識し、神と交わり、神を礼拝するものとされたということです。このようにして、人は他の動物とは異なった存在として、神が特別に創造されたわけですから、人の命の価値を他の生物と同等に見なすべきではありません。もちろん、地球上のあらゆる生物は等しく神の創造によるものであり、愛すべき、保護すべきものですが、命の価値という点で差があるのです。しかし、残念なことに人は罪を犯したために神の栄光を受けられなってしまいました。

     今日の第二コリントの御言葉によれば、私たちの創造主は、キリストを通して私たちの心を再び神の栄光に輝かせてくださいました。つまり、神の栄光に満ちたキリストを知ることによって、私たちの心にも光が輝くということです。神は「光あれ」と言われて闇の中に光を創造されましたが、まさに私たちの心が闇のようであっても、神の栄光が光り輝くのです。罪によって、神のかたちが歪められ霊的に目が閉ざされてしまった私たちですが、キリストを通して、本来の姿を回復することができるのです。

     7節にはとても素敵な聖句が書かれています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」と言うのです。この宝というのは、一言で言えば神の栄光です。他の生物には見られない、人間だけに与えられた神からのプレゼントです。普通大切なプレゼントは、それにふさわしい入れ物に入れておきます。宝石であれば、その宝石に見合った高級な宝箱に保管するでしょう。しかし、神からのプレゼントは金や銀の器ではなく、土の器に入れているというのです。土の器は地味で決してきらびやかではありません。また欠けたり、傷ついたりしやすいものです。価値あるプレゼントを入れておくには相応しいとは言えません。事実私たちは、傷つきやすく、もろく、いろんな意味で欠けだらけです。しかし、そんな私たちを、神はありのままで愛して下さり、私たちを用いてくださるのです。土の器のような私たちを神の栄光を輝かせる価値あるものと見なしてくださるのです。パウロはさらに「それは、この計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」と書きました。私たちがおごり高ぶることなく、ただ神だけを見上げ、神に栄光をお返しするために、私たちは土の器のままで生かされているのです。欠けていても、傷があっても私たちの価値は変わりません。キリストを通して価値あるものとされていることを喜び、今日も神に栄光をお返ししましょう。

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  • コリント人への手紙第二3章18節

    「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

     昨日まで2泊3日の中高生キャンプにスタッフとして参加をしていました。私はシャイで人前で喋るのがあまり得意じゃない中学校1年生と2年生のクラスを担当しました。最初は私の問いかけにもほとんど答えてくれなかった子どもたちも、緊張がほどけたのか、最後にはだいぶ表情も和らぎ、キャンプファイヤーの時に自発的に証しをしてくれた子もいました。

     今回のように宿泊を伴うキャンプは実に4年ぶりのことでしたが、参加するたびに子どもたちが変えられていく姿にスタッフが一番励まされます。短い期間ですが、講師の先生やグループタイムの時に聖書の言葉をじっくりと学び、同世代の仲間と楽しく交わる中で、神の愛に触れ、励まされ、自分の価値に気付かされてゆくのです。

     実は私も中高生の頃は引っ込み思案で内気で、人前で喋ることが大の苦手でした。マイクを持たされると完全に頭の中が真っ白になり言葉がまったく出てこないような子でした。人前で堂々と上手にお話ができる子を見るととてもうらやましいと思いました。今の私しか知らない人にこの話をすると、ほとんどの人が「冗談ですよね。」とびっくりされます。でも私は神さまに変えられたのです。そして最初から何でもできて、物おじせず誰とでもお話しできるキャラクターじゃなかったこと、そのことの中にも神さまのご計画の中にあったと信じることができます。今回のようなキャンプで、シャイな子どもたちと向き合う時、「先生もね、そうだったんだよ。でも、神さまが先生を変えてくださったんだよ。今では毎週説教している。神さまは人を変える力があるんだよ。」と自分の経験から分かち合うことができ、励ますことができます。

     今日の御言葉には、「私たちは変えられていく」と書かれています。しかも普通の変えられ方ではありません。第一番目に「主の栄光を映しつつ変えられる」ということです。主の栄光とはとてつもない栄光です。聖書にはたびたび神の栄光が照らし出されるという表現がありますが、そのとき人はあまりにもその栄光が神々しいために直視することができなくなります。イエスを信じる者は、イエスの愛を受けてその人自身が鏡のようにイエスを映し出すようになるのです。第2番目に、「イエスと同じ姿に変えられていく」とあります。私たちがイエスと同じ姿になるというのはあまりにも恐れ多いと思うかもしれません。もちろんイエスと同化するのではありません。しかし、イエスを信頼し、イエスに従うことを願う者は、自然にイエスと同じ性質を帯びるようになるのです。第三番目に栄光から栄光へと変えられます。これは最終的に私たちが天に召される時、実現する栄化という変化を指します。私たちが生きている間に起こる変化は、肉体的な制約や罪の性質があって完全ではありません。しかし、その制約から解き放たれた時、私たちは完全に変えられます。これらの変化は私たち自身の努力ではなく、聖霊なる神の働きによります。どんな人でもイエスへの信仰により、聖霊の力によって変えられます。誰でもです。私も変えられました。あなたも変えられます。イエスを心から喜び信頼し、期待しましょう。

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  • コリント人への手紙第二3章6節

    「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字(もんじ)に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字(もんじ)は殺し、御霊は生かすからです。」

     聖書は旧約聖書と新約聖書の二つに分かれていますが、旧約や新約の約は「契約」の約という意味です。ですので、旧約は古い契約、新約は新しい契約です。旧約は神がご自身の民として選ばれたイスラエル民族との間に交わした契約ですが、それを土台として、イエスキリストを通して全人類との間に新しい契約を交わされました。古い契約を支えているのは律法です。律法はモーセの十戒を中心として613の戒めからなり、どのようにして神に仕えなければならないか、そしてイスラエルが信仰共同体として生きるために何が必要なのかが細かく規定されています。

     パウロは元々この律法をがちがちに守り実践するパリサイ派のユダヤ教徒でした。彼にとっては律法を守る事こそが神に仕えることであり、それを新しい教えで上書きしてしまったイエス・キリストはとんでもない異端者でした。そうしてパウロはキリスト教を撲滅するために息巻いて迫害に迫害を重ねていたのですが、ある時彼自身がイエスと衝撃的な出会いを経験し、ものの見事にクリスチャンになってしまうのです。かくして彼はキリスト教史上最大の伝道者となり、福音を世界中に広めました。

     このようなパウロだからこそ、もはや私たちは律法ではなく、イエス・キリストを通して救われるとする新しい契約の教えが説得力を持って私たちに迫ってきます。今日の御言葉に、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」とあります。この新しい契約は、イエス・キリストによって与えられた福音ですね。私たちは信仰によってこの新しい契約の中に入れられたのです。そしてパウロは「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です」と語り、神が与えられた新しい契約に仕える者となる資格は、文字にではなく、御霊に仕える者となる資格なのだと説明します。ここで文字というのは律法のことです。律法は文字として記され民に読まれてきたのです。しかし、律法は不完全でした。律法は人を救うものではありませんでした。結局のところ、律法を完全に守ることができる人など一人もいなかったからです。イエスが来られ新しい契約にアップデートされてようやく完全なものとなったのです。それ以来、人はもはや文字に仕える必要はなくなり、イエスを受け入れた時に与えられる御霊に仕える者となったのです。

     パウロは「文字(もんじ)は殺し、御霊は生かすからです」と語り、律法と福音の決定的な違いを述べています。律法は人を罪に定めます。人を縛ります。しかしイエスが私たちを律法の呪縛から解き放ってくださいました。イエスが与える御霊は信じる者に自由を与え、人を解放します。クリスチャンは御霊の導きに従って生きています。御霊に満たされた生活は人をより豊かに、より自由に、より喜びに溢れさせます。あなたには自由がありますか。喜びがありますか。イエスを心に信じ受け入れている人は、どんな困難な中にあっても自由と喜びと解放を得ることができます。あなたも是非、このお方と共に生き、御霊の力をいただいてください。

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  • コリント人への手紙第二2章4節

    「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。」

     一昨日の台風によって家のベランダに置いてあった物置が壊れ、中にあったたくさんの古い思い出の品々が飛ばされて水没してしまいました。停電も重なる中で、今日明日に再びやって来る大風に備えて何とか応急措置をしました。このような中で命が守られたことを神さまに感謝いたします。

     今日の第二コリント2章4節には、パウロが大きな苦しみを持って、涙ながらに手紙を書いたことが記されています。この手紙は第一コリントのことではなく、恐らく今は失われている別の手紙があったというのが大方の聖書学者の見解です。それは2章で記されている内容と第一コリントの内容が合致しないからです。パウロは前に書いた手紙で、ある人の罪を恐らく名指しで指摘し、悔い改めを迫ったものと思われます。その人はパウロに大きな悲しみを与えただけでなく、コリント教会全体に悲しみを与えました。そして恐らく、現在では教会戒規と呼ばれる、大きな罪を犯した教会員に対してなされる処分をコリント教会が発動させ、その人を教会から排除したものと思われます。このような教会戒規がなされる時、教会は大きな傷を受けます。これまで神の家族として共に交わり歩んできた仲間を、本人の罪の故とはいえ、交わりから絶たなければならないのです。しかし、結果的にその苦渋の決断は功を奏し、後に排除されたその人は自らの過ちを認め、悔い改めたものと思われます。それで、パウロは7節でその人を赦し、慰めるようにと伝えています。

     このような背景を元にこの2章は書かれています。今日の4節には、パウロが前に書いた手紙は教会を悲しませるためではなく、自分がどんなに教会を愛しているかを知ってもらうためだったという真の目的について記しています。パウロが手紙を書くとき、それは一時の感情に任せた殴り書きのようなものではありません。書く内容を熟慮し、愛と祈り心を持って書き送るのです。だからと言って、お茶を濁すようなあいまいな書き方をせず、意図が伝わるようにストレートに過ちを指摘します。この絶妙なバランスは、すべてのクリスチャンが学ぶべきことです。過ちや罪はほっておくべきものではありません。それは病気を放置するようなものです。やがて教会全体を蝕むことになり兼ねません。罪の指摘は教会の秩序と清さを保ち、神に対する畏れを共有するものです。イエスご自身がマタイ18章で、罪を犯した兄弟に対してどのように指摘すべきかを教えておられます。これは決して裁きではなく、愛の行いです。同時に忘れてはならないことは、私たちはみな同じ過ちを犯してしまう弱さがあるということです。私たちは等しく罪びとです。罪びとゆえに、他者を指摘する前に自分自身のあり方が問われます。イエスキリストの十字架の赦しなしには、私たちはだれ一人神の前に立つことなどできないのです。自分自身の信仰と行いを振り返りながら、教会が真に清められるように祈っていきましょう。サタンの巧妙な罠に陥ることがないように、すべてを愛と信仰をもって行いましょう。

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  • コリント人への手紙第二1章11節

    「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」

     この雨風の音が聞こえますでしょうか。台風6号の再接近中に録音をしています。ちょうど部屋の窓が南に面しているため、南からの強烈な暴風が窓を打ち付けていて、振動も感じるほどです。小禄教会の対策は抜かりがなかったか心配なのですが、祈りつつメッセージをお届けいたします。

     今日の第二コリントの聖句は、私たちが他者のために祈る「執り成しの祈り」と呼ばれる祈りについて二つの大切な要素を教えています。まず、「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。」と書いています。パウロはこの手紙の読み手であるコリント教会に対して、自分のために祈ってほしいとリクエストをしています。「祈りによって協力してほしい」という表現がとても素敵だと思いませんか。実はパウロはこの聖句の前に、自分が経験してきた数々の困難について分かち合っています。文字通り霊的な暴風を何度も経験したパウロにとって、他のクリスチャンに祈ってもらう事ほど必要な協力はなかったでしょう。するとどうなるでしょうか。「神は私たちを救い出してくださいます」という言葉に表されているように、クリスチャンの真摯な祈りは神に届けられ、神はそれを聞いてくださり、祈りに答えてくださるのです。執り成しの祈りは祈られる人を救うのです。

     次に、「そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです」という執り成しの祈りの二つ目の側面に触れています。これは祈ったことが神に聞き届けられることにより、祈った人たちもまた恵みを受け、感謝を捧げることができるというのです。「情けは人の為ならず」と言う言葉があります。これは他者に示した恩はいずれ自分に返って来るという意味ですが、執り成しの祈りの祝福も同じように自分に返って来るのです。

     私たち家族がネパールに住んでいた2006年3月に、当時5歳だった私の次男がバイクにひかれて頭蓋骨を骨折する大けがをし、病院に緊急搬送されたことがありました。集会に行く準備をしてた私と妻は急いで病院に駆けつけました。目の前で起きていることが現実とは思えないような感覚の中、ただただ祈りながら病院の医師が施す治療を見守るしかありませんでした。そんな中、この事故のことを聞きつけた教会の人たちがすぐに執り成しの祈りの輪を作り、病院内外で祈りを捧げてくださいました。手術は無事終わり、次男は周りも驚くほど早く回復し、4日後には退院ができました。それまでずうっと病院で付き添っていた私が自宅に戻ってパソコンを開けると、本当に驚きました。なんと世界中から祈りのメールが何百通と届いていたのです。ネパールの教会の牧師が世界中のバプテスト教会に祈りの要請をしていたのです。あの時の感動を今でも忘れることはできません。執り成しの祈りの力と、それを聞いてくださる確かな神の守りをあれほど強く感じたことはありませんでした。私たちの祈りは無駄ではありません。神は祈りに答えられ、私たちを試練の中から助けてくださいます。

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  • コリント人への手紙第二1章4-5節

    「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。」

     昨日で第一コリントが終わりましたので、今日からしばらくコリント人への手紙第二からお話をしていきたいと思います。この第二コリントの成立に関しては諸説ありますが、一般的なお話をします。実はパウロは第一コリントの前に、今は失われている別の手紙を書き送ったであろうと言われています。その手紙に対する返事をコリント教会から受け取って書いたのが第一コリントです。その第一コリントをコリントの教会が受け取りますが、どうやら教会はパウロに対する印象を悪化させたようです。その報告を聞いたパウロは、弁明のために別の手紙を書いて送り、それを読んだコリントの教会はようやくパウロの意図を理解し悔い改めの手紙をパウロに送るのです。それを受け取り、安堵したであろうパウロがここで書き送ったのが第二コリントです。なので、失われている手紙が少なくとも1通ないし2通あり、それも含めてパウロとコリント教会との間に書簡のやり取りがなされたのです。

     昨日、オレゴン州に住んでいるある古い知人とメッセンジャーというSNSを使って、彼が最近出版した本についてやり取りをしました。ものの5分で2往復のやり取りが出来たのですが、パウロの時代は、書簡が一往復するのに一体どれくらいの時間がかかったことでしょうか。郵便局も宅急便もありません。危険と隣り合わせの旅をしながら届けてくれる人の存在があり、書簡を託された人は大切に抱きかかえながら目的地まで届けたに違いありません。そのように何か月もかけて届いた手紙を受け取った教会は、きっと一言一言丁寧に読みながら書き手の思いを感じ取ったことでしょう。今や聖書はスマホやタブレット端末でも気軽に読むことができますが、聖書の著者らが神の霊感を受け、恐れつつ書き記していったときのことを想像しながら、私たちも畏怖の思いをもって御言葉に向き合いたいものです。

     さて、前置きが長くなりましたが、このようにして書いた手紙の一部が今日の御言葉です。パウロはたとえどんな苦しみの中でも、神が慰めてくださることを強調しています。そして自分たちが慰めを受けることで、苦しんでいる別の人を慰めることができると語っています。神からの慰めは次から次へと信じる者たちの中で循環し、苦しみの中にある人を癒すのです。そしてパウロは、私たちが受けている苦難はキリストの苦難であること、そして苦難が溢れているように慰めがあふれていることを告げます。これは、パウロがローマ書で語った「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」という言葉を思い起こします。苦しみがあればあるほど、そこに慰めと希望が湧き出るのです。キリストの十字架の死が私たちに永遠の命を与えたように、私たちはキリストにあって苦しみに会うことさえ喜ぶことができます。これが人知を超えた神の力です。私たちの信仰の源はここにあります。私たちを神の愛から引き離すものは何もありません。今日もこのお方を見上げ、この方にすべてを委ね、一日を歩んでいきましょう。

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  • コリント人への手紙第一16章13節

    「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」

     コリント人への手紙第一は全部で16章ありますが、最後の章はパウロの他の書簡同様に、個人名をあげて挨拶を送るという形を取っています。15章までに書かれていた神学的に重厚な内容ではありませんので、つい読み流してしまいそうになりますが、この章もまた聖書の一部であり、神の言葉です。しっかり読んでいきたいものです。パウロがあげた個人名を一人一人見てみると、パウロ自身が決して一人で信仰生活を送ったのではないことがよく分かります。パウロは多くの人たちと共に祈り合い、励まし合い、共に労苦し、共に奉仕し、機会あるたびにイエスキリストを宣べ伝えました。特に愛弟子のテモテ、同僚のアポロ、またパウロと同じ天幕づくりの仕事をしていたアキラとプリスカ夫妻の存在は、どれだけパウロの支えになっていたことでしょうか。

     信仰の歩みは決して一人でしていくものではありません。私たち人間は一人で生きていくように創造されていないのです。人間は「人の間」と書くように、多くの人たちとの関わり合いの中で生きるように召されています。日本人の中には、家族の中でクリスチャンが自分一人だけ、親戚も誰もクリスチャンじゃないという環境の中にいる場合が少なくありません。また近くに教会がなく、一人で信仰を守っている方もおられます。そのような方々の信仰の戦いがどれほど大変なのか、想像に難くありません。もしあなたがそのような環境にいらっしゃるのであれば、神があなたに信仰の友を与えてくださいますように。直接会って信仰を分かち合ったり祈ることが困難であれば、ネットや他の媒体を通して、主にある交わりが実現しますように。

     最後の挨拶を送るにあたり、パウロは、今日の聖句を付け加えました。こう書いています。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい。」コリントの教会がそうであったように、サタンは絶えずクリスチャンを誘惑し、罪を犯させ、誤った教えを吹き込み、神から引き離そうと巧みに働きかけます。私たちにできることは、目を覚まし、堅く信仰に立つことです。しかし、これを自分の力や努力だけで行おうとすると、たちまちサタンの餌食になってしまうでしょう。自分で戦うのではなく、神に委ねましょう。神は聖霊で私たちを満たし、サタンの攻撃に打ち勝つ力を与えてくださいます。そしてできる限り他のクリスチャンと信仰を共有し、共に戦いましょう。そうすることで雄々しく、強く進むことができます。そして、「一切のことを、愛をもって行いなさい」とあります。13章でパウロが強調したように、どんなに強い信仰があっても愛に基づかなければ無意味です。愛こそあらゆる行いの基本です。あなたの言葉、あなたの行動には愛がありますか。独りよがりの言動になっていませんか。自己弁護のための行動、自分を認めてほしいための行動になっていませんか。イエスが示された無条件の愛をお手本に、どんな人にも愛をもって接することができるように、今日も神さまに委ねて行きましょう。

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  • コリント人への手紙第一15章52ー53節

    「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」

     この季節、私の住んでいる地域では朝6時ごろからセミの大合唱が聞こえます。この時期に鳴くセミは主にクマゼミです。このぬちぐすいメッセージのバックでも、録音する時間帯によってはしっかり入り込んでいますね。私は幼い頃からセミの幼虫が羽化するのを見るのが大好きでした。今でも、夕方セミの幼虫が庭をもそもそ歩いているのを見つけると、必ず捕まえて羽化の観察をします。カーテンに止まらせてあげると、幼虫はしばらくゆっくりと上の方に上っていきますが、安定した場所が確保できるとそこでじっとします。そうしてしばらくすると、背中が割れて、そこから成虫が顔を出します。少しずつ反り返りながら全身が出て来て、やがて完全に抜け出し、殻につかまって縮れた羽を伸ばします。最初は白っぽい色をしていますが体の色が徐々に黒っぽくなり、数時間後にはおなじみのセミの成虫に変わるのです。小さな虫の命ですが、何と神秘的な変化でしょうか。幼虫は太陽の当たらない真っ暗な地中に何年間も暮らすのですが、夏のある日地上に出て、その日のうちに全く別のからだに変化し、自由に羽ばたくことができるのです。朝から大声で鳴くセミの声は、まるで自由になったことを喜び、人生を謳歌している声に聞こえます。

     パウロは、第一コリント15章で、私たちの復活がどのようにして起こるかということについて、驚くべきことを明らかにしました。私たちは、一瞬のうちに変えられるというのです。これは、イエス・キリストの再臨の時にラッパの音と共に起こる最高に神秘的な出来事です。その時に生きている人は変えられ、すでに召された人はよみがえります。いずれの場合も私たちは栄光の体をいただき全く変えられるのです。それはまさにセミの幼虫が成虫に変化するような驚くべき変化です。こうして変えられた体は、もはや死なない体です。今日の御言葉には「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」と書かれています。私たちの死なない体は、もはや年を取ったり、病気になることはありません。実はその時、私たちの住む地球も新天新地として全く変えられていますが、その新天新地において主とともに永遠を生きるのです。世の終わりについて書かれた聖書の個所は、象徴的な描写も含んでいるので、はっきりこうだと断定できるわけではありません。しかし確実なことは、私たちは死んだあと霊魂だけが残ってふわふわとどこかに漂うのでも、何か別の生き物に輪廻転生するのでもないということです。私たちは、新しい肉体を伴って一瞬で変えられるのです。セミやチョウやトンボが羽化を通してまるで異なった形に変化するように、私たちは驚くべき体に変えられます。これは死に対する完全勝利です。イエスを信じるなら誰でも変えられます。世の終わりには多くの困難がありますが、キリストにあって変えられるこの日を待ち望みましょう。

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  • コリント人への手紙第一15章23節

    「しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」

     聖書には至るところに、イエスが再び地上に戻って来られるという、いわゆる再臨と呼ばれる出来事について書かれています。イエスご自身が言及され、パウロやペテロやヨハネが繰り返し語っていますので、私たちは再臨を過小評価すべきではありません。何度も語られているということは、それがいかに重要であるかということに他なりません。またこれだけ言及されていますので、象徴としてではなく、字義どおりにキリストが肉体をもって来られると理解すべきです。

     一方どのようにして再臨があるのかということについては、クリスチャンの間でも見解が分かれています。再臨は未来のことですので、分からない部分があって当然です。聖書にははっきり書いていることとそうでないことがある事を踏まえ、この解釈だけが唯一絶対であるかのように語る断定口調の解釈には注意をしたほうがいいでしょう。多くのカルトや異端と呼ばれるグループは、自分たちの解釈こそが正しく、他は間違っているとする傾向が見られます。いろいろな解釈に触れつつ、私はこの解釈を支持する、という程度に留めておく方がいいでしょう。

     さて、今日の御言葉はイエスの復活から王国の支配までが時系列で述べられています。順序はとてもはっきりとしています。まずキリストの復活があります。これはもうすでに2000年前に起こりましたので過去のことです。次に「来臨の時にキリストに属する人たち」とあります。これは当然未来のことですが、二つのことが同時に起こります。すなわち、イエスの再臨とキリストに属する人たちの復活です。それが終わりの時だというのです。その終わりの時に、地上の支配や権威や権力をキリストが滅ぼし、王国を打ち立て、父なる神にその王国を渡されます。

     ここから分かることは、世の終わりにイエスの再臨があり、イエスと同じように私たちが復活をするということです。この復活は肉体を伴った復活です。でも、人は死ぬと土に還ります。火葬されると骨と灰になります。一体どのようにして肉体の復活があるのでしょうか。このプロセスを科学的に説明することはできません。ただ聖書から読み取れることは、私たちが復活の時に頂く肉体は、もはや朽ち果てていくようなこれまでの肉体ではなく、滅びることのない永遠に続く栄光のからだであるということです。なぜなら、26節に「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」と書かれているからです。恐らく愛の神は、幼くして亡くなった人、長寿を全うして亡くなった人、障害を持って生まれ亡くなった人たちにも、染みも汚れもない最も美しい体を与えてくださるのではないでしょうか。そこにはサタンの住む余地はなく、神が永遠に王として治める御国があるのみです。何という美しい光景でしょうか。地上で送った人生がどれほど過酷で不幸なものであったとしても、キリストにあって私たちは死に勝利し、栄冠を与えられるのです。再臨のキリストを心から待ち望みましょう。

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  • コリント人への手紙第一15章3-5節

    「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

     パウロの書簡は新約聖書の大半を占めていますが、そのすべてに彼の信仰と情熱がにじみ出ていて、それでいて一つ一つ読み手の状況や背景を考えながら祈り心をもって書かれているところに深い感動を覚えます。何度かお話ししていますように、第一コリント・第二コリントの宛先であるコリントの教会は、様々な問題を抱えた教会でした。パウロはその問題に真正面から切れ込み、時折厳しい口調で叱咤激励しつつも、愛に満ちた言葉で励まします。そして15章では、イエスの復活と私たちの復活に焦点を当てます。死者が復活するというのは、パウロがいた当時でさえ、簡単には受け入れがたいことで、実はコリントの教会はこの点でも問題を抱えていました。キリストの復活を否定する人たちが紛れ込んでいたのです。そこでパウロは、イエスがよみがえったことはまぎれもない事実であるばかりか、私たちの信仰の中心テーマなのだと、力説しています。

     この復活というテーマを語るのにあたり、今日の御言葉にあるように、パウロは福音の中心ともいうべき内容の確認をします。まずイエスが私たちの罪のために死なれたということ、次に墓に葬られたということ、そして三日目によみがえられたということです。この告白の中で、イエスの死の目的とその事実、そして復活が旧約聖書の預言の通りであったと語られています。旧約聖書も新約聖書もイエスと言うお方を指し示しています。福音は常にイエスが中心です。イエスの死と復活こそ、私たちの信仰の土台であり、私たちが分かち合うべき宣教の中心です。初代教会のリーダーたちはこの福音を宣べ伝えるために命を懸けました。

     さて、パウロは福音の最も中心が何であるか述べた後、イエスの復活の証人のリストを挙げました。パウロがこの第一コリントを書いたとされる紀元55年頃は、イエスが昇天されて20数年後のことです。これが何を意味しているかと言うと、イエスが復活したことを直接目撃した人たちの多くがまだ生きていたということです。実際にそのリストを挙げているということは、もしイエスの復活について疑いを持つ者があれば、これだけの目撃者がいるのだから、彼らに直接聞いてみるがよい、とパウロは言っているのです。何か事件が起きた時、最も大切な証拠とされるのはその事件の目撃者の証言です。その証言が多ければ多いほど、その事実の信ぴょう性は高まります。イエスの復活も多くの人に目撃され記録されました。そしてこの事実を伝えるために、イエスの弟子たちは死を覚悟して宣教をしていきました。

     イエス・キリストは紛れもなく復活されました。それはあなたや私が復活の希望を持つためです。どんなに私たちの人生が辛く苦しいものであっても、信仰を全うする者には復活の望みがあるのです。復活のイエスを心から慕い求めましょう。

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  • コリント人への手紙第一14章20節

    「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」

     「子どもっぽい」という言葉と、「子どものような」という言葉は、似ているようですが異なる意味を持っています。子どもっぽいという言葉には、大人であるのに成長していない、成熟していないというネガティブな意味が込められています。一方のこどものようなという言葉は、子どものように純粋無垢、天真爛漫であるというポジティブな意味で使われることが多いですね。この事から分かるように、子どもには良いイメージと悪いイメージの両方がついて回ります。

     今日の第一コリント14章にはまさに、子どもについてのこの両方のイメージが語られています。パウロは、考え方においては子どものようであってはいけませんが、悪事においては子どものようでありなさい。と指摘しました。教会に来ている子どもたちを見ていると、とても素直にお話を聞き、素直に心に受け入れ、理解をすることが分かります。イエスご自身、マタイの福音書18章2節で「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と言われ、子どものように素直な信仰を持つことの大切さを教えられました。

     このような素直で純粋な信仰はいつになっても持ち続ける必要がありますが、一方で、信仰には成長が必要です。パウロはこの第一コリント14章で、異言や預言など、いわゆる霊の賜物について扱っています。これは、その前の13章で愛こそが最も大切であるということを前提に話している事を理解する必要があります。コリントの教会は、霊の賜物を熱心に求め、それを得ていましたが、その用い方について混乱がありました。教会の中で思い思いに異言や預言を語る人たちがいて、その様子が13章1-2節に書いたように、やかましいどらやシンバルのように聞こえたのだと思われます。

     14章全体を読むと、パウロは決して異言や預言そのものを否定してはいません。ただ秩序正しく用いるようにと注意を促しているのです。ですから、26節では「そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」と語り、33節では「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」と語っています。この後の聖句では、女性が教会で語ることについて禁止する驚くべき内容が続きます。現代の教会でこれをそのまま適用すると問題になりそうです。しかし、これもやはり、当時集会中に騒がしくして風紀を乱す女性たちがいたことを背景にしています。パウロのポイントは、異言や預言の否定でも、女性たちのおしゃべりの禁止でもありません。40節に「ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」とあるように、集会における秩序の維持と、成熟した大人としての行動を促すものだということです。子どものような純粋さと素直をいつまでも忘れることなく、信仰がますます成長し、知的にも霊的にも成熟したクリスチャンになるよう、神さまに祈り求めていきましょう。

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  • コリント人への手紙第一13章13節

    「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

     キリスト教式の結婚式でほぼ必ずと言っていいほど読まれる第一コリント13章ですが、13節にはその結論が述べられています。いつまでも残るもの、というものは、仮にこの世界が終わってしまうようなことがあっても、最後まで残り続けるものという意味です。私たちが現在手にしているものは、お金やお家など目に見えるものはもちろんのこと、そうでないものも含めて、もしこの世界が終わることになれば、なくなってしまうものばかりです。どれだけ苦労して築き上げたものであっても、この世の終わりにはそれらははかなく消えてしまうのです。しかし、聖書はたとえそのような時代が来ても、信仰と希望と愛の3つは最後まで残り続けると語るのです。

     1番目に、信仰が残ると書かれています。信仰とは神への全き信頼です。世の終わりが来ると多くの人は「神も仏もあるものか」と逆に信仰を捨ててしまうのではと思うかもしれません。自分の命がもう持たないとわかると、神なんか信じていても意味がない、と言うのです。ところが、不思議に人は絶体絶命のピンチになると、むしろ神にすがるのです。もちろん、聖書が語る信仰は、このような「苦しい時の神頼み」的な信仰ではなく、日常の中で確立した確固たる信仰です。真の信仰とは、平穏な時でもピンチの時でも不変です。聖書には困難の中で最後まで信仰を貫き通した人の例がたくさん登場します。

     2番目に、希望も最後まで残ると聖書は語っています。有名なギリシア神話のパンドラの箱の物語では、開けてはならないと言われていた箱をパンドラが開けてしまうと、その箱からありとあらゆる災いが飛び出してしまうのですが、最後に希望の女神が現われたとされています。最後に希望が残ったという物語は、今日の御言葉に共通しているようにも思えますが、パウロが語っている希望は、キリストにある希望です。単なる願望や夢物語のような淡い希望ではなく、私たちを知り尽くしている神が与えてくださる希望です。ローマ人への手紙5章5節に「この希望は失望におわることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とある通りです。

     最後に、愛が残るとあります。パウロがこの13章で強調しているように、この愛は私たちが得ることができる恵みの中で最大のものです。神はこの愛の塊です。私たちの愛は、神の愛の性質から来ているのです。なぜなら私たちは神の似姿に作られたからです。残念ながら、この愛が罪によって歪められ、人間の欲望と混同されている現実があります。この世は奪い取る愛、傷つける愛、偽りの愛で満ちています。しかし、神の愛は無条件の愛であり、与え尽くす愛です。イエス・キリストの十字架で表された愛がそれを象徴しています。これがアガペーの愛です。

     パウロは最後に、「その中で一番すぐれているのは愛です」と結びました。信仰も希望もそれぞれ最後まで残る大切なものですが、しかし愛はそれに勝るものです。神はあなたを愛してやまないお方です。このお方の愛を存分に受け取り、この愛をお返しすることができるように祈り求めましょう。

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  • コリント人への手紙第一13章1ー2節

    「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」

     聖書中最も格調高く、最も愛されている章の一つが今日の第一コリント13章です。愛の章と呼ばれ、4節からは「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」というように、愛が何であるかについて美しい言葉で表現されています。キリスト教式の結婚式では必ずと言っていいほど読まれる定番の聖句です。

     パウロはコリントの教会の様々な問題点を、12章までに極めてストレートに指摘してきました。分裂・分派の問題、教会内での差別の問題、不品行の問題、礼拝における無秩序の問題などです。これだけ問題点が多いと、コリントはまるで学級崩壊している中学校のように、もはや教会という体をなしていないのでは思えてしまうのですが、実はパウロが1章で述べているコリント教会の実態は、実に素晴らしいものです。少し書き出してみると、「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」「あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。」などと書き送っているのです。コリントの教会はある意味で、とても霊的なものに熱心で、賜物も与えられていて、賞賛すべき点も沢山ある教会でした。14章には異言や預言のことについての教えがありますが、そのようなこともコリント教会の特徴だったのです。

     しかし結局、どれだけ熱心であっても、どれだけ霊的な雰囲気を持っていても、どれだけ賜物が与えられていても、どれだけ異言や預言が語れたとしても、キリスト者にとってもっとも大切な「愛」が欠けているなら、すべてが無意味だというのです。1節では、「たとえ異言が話せたとしても」とあり、2節では、「たとえ預言の賜物やあらゆる知識や素晴らしい信仰があっても」とありますが、まさにこれらはコリントの教会が誇っていたものです。それら自体はもちろん素晴らしいものです。しかし、結局愛がなければさわがしいどらやシンバルと一緒で、何の意味もないのだ、と極端なまでに愛の優位性を説いています。愛がすべてです。最後に勝つのは愛なのです。

     現代の教会において、私たちが求めているのは何でしょうか。教会に多くの人がやって来ること、活動が活発になること、讃美や祈りが何時間も捧げられ霊的な雰囲気に溢れること、立派な説教が語られること、などがあるかもしれません。そのようなことも必要でしょう。しかし、究極的に私たちが求めることは一つしかありません。愛です。神を愛する愛、そして隣人を愛する愛。イエスもすべての律法は結局ここに集約されると言われました。その愛を体現したのが十字架です。私やあなたのために命を捨てるほどに、イエスは私たちを愛してくださいました。今日一日、私たちが神の愛に満たされ、家庭において、仕事場において、社会において愛を実践することができますように。

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  • コリント人への手紙第一12章12節

    「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」

     人間のからだは頭のてっぺんから足のつま先まで、数多くの器官や臓器などから成り立っています。生まれたばかりの赤ちゃんも、大人と全く同じような部分部分を持っています。そしてそれら一つ一つには役割があり、他の器官ができない機能を果たしています。

     以前、NHKスペシャルで、「人体」という番組を、シリーズで放送していました。最新科学の研究によって、人体はそれまで考えられてきた以上にはるかに驚くべき機能を持ち、極めて緻密な造りになっているということを明らかにしていました。例えば、「体中の臓器がまるで会話をするように、互いに情報をやりとりすることで、私たちのからだは成り立っている」ということや、「体内の赤ちゃんがメッセージ物質を使って、母親とまるで会話をするように情報をやり取りしている」ということなどが解説されていました。人間のからだはただ生まれ、成長し、老化して死んでゆくだけの存在ではなく、はるかにダイナミックな小宇宙ともいうべき奇跡的な存在なのです。最新科学がこのように、生命の神秘を明らかにしてくれることはとても嬉しいことです。私はこのようなことを知ることで、ますます神の創造の業と神の愛を感じ、神の御名を賛美するものです。

     聖書は、第一コリント12章の中で、教会をキリストのからだにたとえています。教会というのは建物ではなく、私たち一人一人を指しています。私たち一人一人がからだを構成する構成要因ということです。この教会が健康を保ち、本来の機能を果たすために大切なことが幾つかあります。

    まず第一に、頭であるイエス・キリストに従うということです。頭はいわばコントロールタワーです。全体の行動を決めたり制御したりする機能を持っています。脳が発信する信号通りに各部分が動かなければ、その体は機能不全という問題を起こしていることになります。

    2番目に、各部分がそれぞれの役割を認識し、与えられた役目を果たすということです。今私は自分で書いたメッセージの原稿を、目で追いながら、口で読み上げています。目と口がそれぞれの役割を果たしてくれるおかげで、一つの作業ができるのです。

    3番目に、それぞれの部分はお互いに労わり合い、配慮し合う必要があるということです。先ほど、体中の臓器が、互いに情報のやり取りをしている、という最新科学が明らかにした人体についてお話ししましたが、それはまさに私たちがお互いを必要とし、連係プレーをしながら生きていく存在だということです。

    4番目に、必要のない部分は一つもないということです。第一コリント12章22節には、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです」と記され、役に立たなそうな部分こそ実は必要であることを教えています。教会にいなくてもいい人は誰一人いないのです。

     ここ数年、コロナの影響もあって、オンラインによる礼拝や聖書の勉強会の機会が増えたことは神からの大きな恵みです。とは言うものの、可能な限り、キリストのからだである教会に直接繋がり、イエスを中心とした交わりの中で、多くのことを分かち合い、神を礼拝することを忘れないようにしたいものです。

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  • コリント人への手紙第一12章3節

    「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」

     イエス・キリストは死から復活され、40日後に弟子たちの見ている前で天に昇って行ったことが使徒の働きに記されています。とても不思議な出来事でした。この瞬間から、イエスはご自身の働きを完全に弟子たちに託されました。師匠のいなくなった弟子たちは不安だったと思います。しかし、イエスは何度も弟子たちに約束をしていました。それは聖霊が遣わされこと、聖霊によって力を与えられること、聖霊が必要なことを教えてくださるということです。

     イエスの約束通り、ペンテコステの祭りのときに聖霊が突然弟子たちの上に下り、彼らはイエスの証人として力強く証しを始めました。彼らの働きを通して多くの人たちが救われ、信仰に入りました。ここから初めて教会が誕生したのです。イエスを主として礼拝する群れが、あちらこちらに生まれました。こうして建てられた教会の中から、宣教の働きを担う人たちが起こされ、彼らが各地にイエスの言葉を伝えていきました。

     こうしてみると、イエスは天にお帰りになると同時に、ご自身の働きを教会に委ねられたことがわかります。教会にはいろいろな人たちがいて、一人一人違っています。明日またこのことについてさらに詳しくお話しいたします。いずれにしても、この2000年の間に教会の宣教の働きを通して、文字通り世界中に福音が伝えられ、今や世界で24億人、人口のおよそ3分の1がクリスチャンであると言われています。日本のクリスチャン人口は1%以下と言われていますから、あまり実感できませんが、これだけ多くのクリスチャンがいるということはとても励まされることです。

     ところで、クリスチャン、クリスチャンって言っていますが、クリスチャンってどういう人のことをいうのでしょうか。一番簡単な定義は「イエスは主です」と信じている人のことです。イエスを主と信じるということは、もっと砕けた言い方をすれば、イエスを自分の人生のボスと認めるということです。今日の御言葉には、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」とあります。「イエスは私の人生のボスである」と認めることは、聖霊の働きによるというのです。

     「親分はイエス様」という映画が2001年に作られましたが、ご覧になった方もおられると思います。これは文字通り極道の世界に生きていた男たちが、人生の途上でイエスと出会い、クリスチャンとしての道を歩んでいくという実話をもとにした映画です。彼らの多くが牧師にまでなりました。やくざから牧師になるとは驚くべき変化ですが、聖霊が働くことで、罪と悪の世界を生きていた人でさえも変えられ、心からイエスを主として生きることができるのです。

     あなたの人生の主は誰でしょうか。イエスを主として心にお迎えしてみませんか。世界中の数えきれない人の人生が変えられたように、あなたの人生もきっと変えられるでしょう。

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  • コリント人への手紙第一10章31節

    「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」

     今日は、いつもより遅い時間からの配信になりますがご了承ください。

     さて、あなたは毎日食べる食事のメニューをどのように考えていますか。専業主婦の方など、毎日食事作りを担当している人であれば、栄養の偏りがないように工夫したり、家族に持病を抱えた方がいるなら、それに合わせたメニューを考えたりするのではないでしょうか。もちろん、最近は物価高の影響がありますので、とにかくできるだけ安い食材を買ってきて調理をするという方もいらっしゃるでしょう。私はかつて何回かダイエットにチャレンジしたことがあり、その時はかなりストイックにカロリー制限をし、今よりだいぶスリムな体系でした。

     旧約聖書のレビ記には、聖い食べ物と汚れた食べ物が大変細かく分類され、汚れた食べ物を食べてはならないとしています。例えば、ひづめが分かれ、かつ反芻する動物は食べていいのですが、それ以外の動物、たとえば豚は食べてはいけません。また魚はひれや鱗のないものは食べられないので、なまずやたこなどだめです。今でも多くのユダヤ人は厳格にこの食事規定を守っています。

     では、新約聖書にはどう書かれているでしょうか。初代教会のリーダーはイエスの直接の弟子たちでしたが、彼らはみなユダヤ人であり、最初の頃は食事規定を守っていました。ところがある時ペテロに決定的な出来事が起こります。こんな夢を見ます。自分の目の前に、あらゆる汚れた生き物が出されるのです。「こんなものは食べられない」と拒否したペテロに対して、声が聞こえます。「神が聖めたものを、あなたが聖くないと言ってはならない」という声です。そこでペテロは目を覚まします。

     実はこの出来事は神からの啓示でした。当時ユダヤ人は異教徒である外国人との交わりを厳しく制限していましたが、神は民族によってご自身の恵みを制限したり、救いの道を閉ざすことはなさらないとメッセージを送ったのです。ペテロはこの出来事以来、異邦人にも積極的に接するようになり、パウロの異邦人伝道にも大きな影響を与えました。

     神は食事規定の撤廃というインパクトのある夢を通して、ペテロの中にある民族差別の壁を取り除いてくださったのですが、この食事規定の撤廃は、文字通りに実現します。異邦人伝道の最前線に立ったパウロは、常にユダヤ教的律法とキリストにある自由との間に立って、イエスの十字架を通して救われ解放されたことの意義を強調しました。幾つかの書簡で食事のことについても触れ、私たちはもはや律法に縛られることなく、良心の自由に従って食事をしていいのだ、と書き送りました。

     今日の御言葉は、そのまとめです。「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」何を食べるかではなく、何の目的で食べるのかが大切であると語りました。日々の糧が与えられていること、これによって健康が支えられていることを心から神に感謝して食事をすることが大切なのです。今日も感謝と喜びをもって与えられた食事をいただきましょう。

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  • コリント人への手紙第一10章13節

    「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

     ぬちぐすいメッセージは、公式アカウント時代からの発信を含めて、今日で300回を迎えました。このことを可能にしてくださった神と、聞いてくださっている皆様お一人お一人に心から感謝いたします。今後とも宜しくお願いします。

     今日の御言葉は、ここ数年で一般の人たちにもよく知られるようになりました。聖書の言葉が知られるようになること自体は大変嬉しいことです。ただし、必ずしも本来の意味と同じように理解されているわけではないようです。

     まず、2019年に水泳の花形選手であった池江瑠花子選手が白血病であることを公表し、大きな衝撃を与えました。その直後にツイッターで「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」と書き、それをメディアが大きく取り上げました。するとそれとほぼ同じ時期に、フィギュアスケートのスーパースター羽生弦結選手が、インタビューで「よく言われる『試練は乗り越えられる者にしか与えられない』という感覚は、自分の中にあります。」と答え、またメディアが取り上げました。すると今度は、お笑い芸人の岡村隆史さんが、ラジオ番組の中で「『神様は、人間が乗り越えられない試練は作らない』と言うてはりますから。」と言いました。これだけでも随分認知されているな、と思います。ただ、恐らく元ネタが聖書であることを知らずに使っているのではないかと思います。

     そもそも前の二つは病気とけがというスポーツ選手には非常につらい試練なので、理解できるとしても、三つ目の方は、コロナ禍で性風俗店にいけないという事実をもって、「神が与えた試練」と言っていますので、とてもフォローできる内容ではありません。明らかな御言葉の誤用です。

     第一コリント10章13節で使われている御言葉は、コリントの教会に分裂や不品行などの問題があったことに対して、パウロが戒めるために書いた文脈の中に出てきます。実は試練という単語は、誘惑とも訳することのできるもので、世の中には沢山の誘惑があるが、そこから逃げる道を神様が用意しておられる、という意味にも取れるのです。誘惑にしろ試練にしろ、それを経験しない人は一人もいません。私たちはみな、日々の生活の中で小さな誘惑から大きな試練まで、次々と降りかかってくることを体験しています。大切なことは、神が共にいてくださるということを知ること、脱出の道が用意されているということ、それを見つけたらためらわず脱出すべきだということです。自分の努力には限界があります。神が助けてくださるのですから、神に祈り神に思いっきり寄り頼みましょう。あなたがもし今、試練や誘惑の中にいるのなら、神が備えてくださっている脱出の道を見出せるように求めましょう。

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