Afleveringen

  • 2025年5月18日 復活節5主日

    説教題:信頼と抵抗の日

    聖書: 創世記 1:31–2:3、マルコによる福音書 2:23–28、詩編 46、フィリピの信徒への手紙 4:4–7

    説教者:稲葉基嗣

     

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    現代社会は、とても目まぐるしい社会です。情報は常に飛び交っているため、何を掴めば良いかわからないこともあります。だから、怒涛に押し寄せてくる情報の波の中で、何とか必要な情報を掴み取り、その荒波の中を生き抜いていくために、有限である時間を最大限に活用できる方法を私たちは重視します。けれども、現代社会は、時間を大切にするあまり、時間を確保するために、疲れて切ってしまっている印象を覚えます。創世記の言葉は、そんな現代社会に対して、挑戦的にも思える内容です。神は、6日目に創造した世界が完成したとは宣言しません。神が立ち止まった、7日目に世界の創造の完成が宣言されています。それは、神によって造られたこの世界の良さを神自身が味わい、喜ぶためでした。旧約聖書は、この出来事を安息日と呼ばれる日の起源として伝えています。つまり、神が立ち止まったから、人間も立ち止まる必要がある日だ、と。それはまるで、七日に一度、手を止めて、立ち止まるという、定期的なリズムを私たちに教えているかのようです。現代に生きる私たちにとって、これはとても挑戦的なリズムです。効率を重視して、時間の質を保ち、必要な時間を捻出するために日々、奮闘する私たちに、一度、立ち止まるように伝えるからです。神は、時間を自分自身の力で支配することをやめてみるようにと語りかけます。毎週の日曜日の礼拝は、安息日の持つ豊かな意味を引き継いでいます。それは、聖日厳守を声高に叫ぶことではありません。私たちは礼拝を通して、神の前で立ち止まります。自分のために時間を用いたり、急ぎ足で時間を消費する、私たちの生活のリズムから、礼拝を通して、一旦、離れます。そして、神が私たちを招いておられる、時間の流れの中に、一度立ち止まることを通して、その身を置きます。立ち止まって、少しずつ、この世界や私たちの日常の中で目に留められなかったものに目を向けます。私たちが必死に動かなくても、私たちは神の守りの中に置かれていています。ですから、神の前で立ち止まるきょう、この日は、神への信頼を育む日です。そして、タイパを追求することが当たり前であったり、大切な人たちとの時間を何とか確保しようと、奔走し、忙しない時間を過ごすことに慣れきってしまっている私たちにとって、きょうこの日は、この世界の当たり前への抵抗となる日です。

  • 2025年5月11日 復活節4主日

    説教題:「極めて良い」と宣言された世界で生きる

    聖書: 創世記 1:20–31、マタイによる福音書 5:3–12、詩編 150、ヤコブの手紙 3:8–10

    説教者:稲葉基嗣

     

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    『チ。―地球の運動について―』 という作品に登場するオクジーという男性は、「夜空はいつでも美しいのに、なぜこの世界はこんなにも醜いのだろうか」という疑問を子供の頃に抱きました。この疑問は、戦争や貧困、経済格差や環境汚染、いじめや差別など、世界の様々な問題を見せつけられている私たちにとっても他人事ではありません。このような世界は、美しい世界でしょうか?むしろ、この世界は初めから醜く、穢れた、問題だらけの世界だと結論づける方がとても簡単に思えてきます。けれども、そんな私たちやこの世界に向かって、「極めて良い!」と神が宣言している姿が創世記1章では描かれています。もちろん、それはこの世界のあらゆる問題をないもののように取り扱い、まったく見ないふりをして、神のこの宣言を紹介しているわけではありません。というのも、この創造物語が文書として生み出された時期は、少なくともイスラエルの民がバビロニアという古代の大帝国へと強制的に連れて行かれた時代以降のことだからです。希望を持てない人びとの生きる世界を神は祝福し、無秩序な世界に、秩序と正義と平和を与え、その世界を「良い」と宣言してくださいます。ですから、創世記にとって、この世界は醜く、悪に満ちた世界ではありません。ボロボロかもしれないけど、神が祝福し、極めて良いと宣言した世界です。このような世界で生きる私たち人間は、神にとって、「良い」と語りかけられ、祝福を受けている存在です。神はそんな私たちにこの世界を託しました。それは、貪るため、争い合うため、呪い合い、蹴落とし合うためではありません。良いと宣言された世界を良いものとして保ち続けるためです。ボロボロに傷ついた世界で生きる人々に、あなたは良い存在なんだ、という言葉を届けるためです。この世界のすべてのものが神から祝福されていることを伝え、お互いに対する愛や憐れみを取り戻すためです。「あなたは極めて良い」。「この世界は極めて良い」。そんな言葉を失ってしまった世界が美しさを取り戻し、回復へと導かれていくことを神は心から望んでいます。そのために、神は私たちに、きょうも語りかけておられます。そして、イエスさまが愛や憐れみをもって見つめるものを私たちも見つめるために、イエスさまと共に歩む信仰の旅路へと私たちを招いておられます。

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  • 2025年5月4日 復活節3主日

    説教題:人とは何者なのか

    聖書: 創世記 1:20–28、コロサイの信徒への手紙 1:15、詩編 8、ルカによる福音書 10:25–37

    説教者:稲葉基嗣

     

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    詩編8篇で、この世界の、これらすべてのもの、そのひとつひとつを神がデザインし、神が造り、命を与えたという事実に、詩人は圧倒されています。そして、神によって造られたもののひとつに過ぎない、私たち人間に神がその目を留めてくださっている不思議さに、詩人は驚きを隠せませんでした。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。(詩 8:5)私たちの生きる現代社会において、この言葉はまた違った意味で響いています。自国優先の主張、終わらない戦争や暴力、温暖化によって頻発する山火事や洪水。そういったことを引き起こしている人間とは、何者なのでしょうか。創世記1章は、このような社会で生きる私たちに、人が何者であるかを思い起こすように促すような物語です。ここで特徴的な言葉は、人間が神のかたちに造られているということです。古代エジプトやメソポタミアにおいて、神のかたちは、王さまや王族など、ほんの一握りの人びとに対して使われた言葉でした。創世記はほんの一握りの人たちのみを神のかたちと呼ぶことを拒否しています。人類全体、誰もが、神のかたちを持っている。誰もが特別な存在で、尊い存在なんだと伝えています。ただ、私たちがその事実を誇るためだけに、神は私たちを神のかたちに似せて造ったわけではありません。創世記は、私たち人間の決して揺るがない尊い価値を認めたその上で、私たちが誰かとの関係の中に生きていることを伝えています。それはわたしたち人間と神との関係だけではありません。神は人間を造ったと言わず、男と女に人間を造ったと伝えることによって、自分とは異なる他者との関係の中で生きることが自然なことと伝えています。そして、この世界を治めるようにと創世記は伝えます。それは、際限のない搾取を肯定するような言葉ではありません。それは、この世界が更に命で溢れていくことを目指して生きることによって、神の創造の働きを引き継いでいくようなものです。一体、どうすれば神のかたちに似せて造られた私たちは、神が望む、豊かで、喜びと命に溢れる関係性をこの世界の中で築きながら歩めるのでしょうか。神が私たちのもとに送り、私たちと共に歩んでくださる、イエスさまのうちにこそ、私たちは神のかたちを見出すことができます。私たちがイエスさまを見つめ、イエスさまと共に生きることを通して神は、私たちの神のかたちを癒やし、命の息をその日常に届けようとしておられます。だからこそ、神のかたちを持る者の歩みを指し示すキリストが私たちには必要です。

  • 2025年4月27日 復活節2主日

    説教題:夕があり、朝がある

    聖書: 創世記 1:6–19、ローマの信徒への手紙 8:18–30、詩編 148、ヨハネによる福音書 11:38–44

    説教者:稲葉基嗣

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    創世記1章は古代イスラエルの人々がバビロニアへ強制的に連れて来られた時、彼らがバビロニアの文化に触れたことに大きな影響を受けています。バビロニアで人気の物語の一つに、バビロニアの天地創造の物語がありました。バビロニアの創造物語は、神々の戦いの中で死んだ、神のなきがらを用いて、この世界が造られたと血みどろなイメージを伝えます。バビロニアでこの物語と出会い、耳にした時、古代イスラエルの人たちは一体どのようなことを感じたでしょうか。この世界を造った神を信じる彼らは、バビロニアの創造物語が伝えるこの世界の成り立ちに同意しませんでした。「悪と見なされた神のなきがらで包まれている問題だらけの世界として、この世界が本来造られたわけないじゃないか。私たちの信じる神は、この世界を祝福し、良いものとして創造されたんだ」。創世記の創造物語から、古代イスラエルの人々のそのような声が聞こえてきます。けれどもこの物語は、バビロニア文化に対抗する形で、古代イスラエルの人たちが自分たちの信仰を表明することが第一の目的ではありません。むしろ、故郷から強制的に引き離された人たちや、故郷の町や神殿が破壊され、蹂躙されてしまった人たち、友人や家族を奪われ、失望の中にいる人たちに、希望を与えるための物語でした。私たちは悲しみや苦しみの中にある時、時間が止まり、自分だけが取り残されているような感覚を覚えます。捕囚の時に味わった、過去の辛い経験を何度も思い出し、時間が一向に進まない。そんな彼らに向かって、この物語は、ゆっくりと、時間が流れ出したことを伝えます。「夕があり、朝があった」と、何度も繰り返し、時間が経過していることを伝えます。その時間の流れの中で、この世界を創造した神が働いてくださっています。神は、この世界の混沌の中に働きかけ、暗闇に光をもたらし、命のないところに、命をもたらしてくださっています。神が祝福し、良いと宣言しておられる世界の中に、神の時の中に、ただ身を置き、神の働きを見つめなさい、と創世記の物語はそのはじめに伝えます。その瞬間、瞬間を神が祝福し、混沌としたところに秩序をもたらしてくださいます。私たちが希望を持てず、無感覚になり、良い変化を望めないような場所に、神は共にいてくださり、命への道を開いてくださっています。夕があり、朝がある。その先に訪れるものは、神のもとにある安息です。神のもとで安息する、天の御国に私たちがたどり着く、その日に向かって、すべてのことのうちに神が働き、神の御手のうちに時は流れていきます。

  • 2025年4月20日 復活の主日

    説教題:混沌とした世界に、神の息吹

    聖書: 創世記 1:1-5、ヨハネによる福音書 20:11–18、詩編 19、コリントの信徒への手紙 二 4:14–15

    説教者:稲葉基嗣

     

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    「主はよみがえられた」は、主の復活をお祝いするイースターの日の合言葉です。キリストの復活は、神が将来、私たち一人ひとりに新しい命を与えてくださることを約束し、希望を与えてくださっている出来事です。神がキリストに復活の命を与えたように、私たちを愛し、慈しんでおられる神は、将来、私たちに復活の命を与えてくださいます。そのような信仰的な確信を抱いて、私たちはイースターをお祝いしています。けれども、このイースターの日の合言葉は、「死んだらそれで終わり」と語るこの世界の当たり前とは、真逆のことを伝えています。今、私たちの世界はどうしようもないほどに、死に囲まれています。命を軽視され否定されることに、この世界は慣れきってしまったのかもしれません。そんなイースターの出来事とは真逆の光景は、創世記1章の物語を耳にした人たちの眼の前にも広がっていました。この世界は混沌としていて、この世界は暗闇に包まれていました。このような世界の描き方は、創世記1章の物語を聞いた人たちの置かれていた状況(バビロン捕囚後)を反映しています。そんな混沌とした世界に、神が「光あれ」と語りかけることから命が広がりました。キリスト教会は、このような出来事が私たち一人ひとりの人生に、そして、この世界に起こると信じています。十字架の上で死んで、葬られたイエス・キリストに神が復活の命を与えたように、死で覆われた混沌としたこの世界に、神は命を与えてくださる。キリストを復活させたように、死の前に無力な私たちを将来、神がよみがえらせ、永遠の命を与えてくださいます。あの日、キリストがよみがえられたからです。キリストの復活は、私たちにとって、将来の希望しか与えないものなのでしょうか。混沌としていて、暗闇と死に覆われているように思えるこの世界において、キリストの復活は今このとき、何の意味もなさないのでしょうか。神は、私たちがイエスさまと出会うことを通して、この世界に復活の命の希望を届けることを選ばれました。イエスさまと出会い、イエスさまの愛や憐れみに触れた私たちが、その愛や憐れみを分け与えに出かけていく。そんな小さな積み重ねを通して、神は、キリストにある復活の命を、キリストにあって新しく生きる道を、この世界に届けようとしておられます。神の息は、混沌とした世界に命を届けるために、やがて必ず訪れるその瞬間を待っています。

  • 2025年4月13日 しゅろの主日

    説教題:傷ついた主イエスを見つめることにどのような意味があるのか?

    聖書: ヨハネによる福音書 19:1–16、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 24、ヘブライ人への手紙 4:14–16

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ろばに乗ったイエスさまがエルサレムに入場したとき、エルサレムの人びとはナツメヤシの枝を手に持って、「ホサナ(どうか救ってください)。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」(11:13)と叫び続けて、イエスさまのことを歓迎しました。ナツメヤシは、ユダヤの人びとにとって、繁栄や祝福を象徴する植物でした。待ち望んでいた王がエルサレムにやって来る。それによって、自分たちは神によって祝福され、繁栄することになる。そんな期待に胸を膨らませて、彼らはイエスさまのことを歓迎したのでしょう。けれども、イエスさまが逮捕され、拷問を受け、裁判にかけられたとき、イエスさまの死を望むユダヤの宗教指導者たちの声に同調して、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました(19:6, 15)。この時、イエスさまが味わったものは人びとからの拒絶だけではありません。十字架刑によってイエスさまは、激痛と辱めを経験しました。ピラトはそんなイエスさまを指して、その場に集う人たちに向かって、「見よ、この人だ」(5節)と言います。それは、ユダヤ人たちの王を自称していると訴えられたイエスさまや、イエスさまのことを訴えたユダヤ人たちを小馬鹿にしたような行動でした。ピラトにとって、彼のこの発言は、自分のことを利用してイエスさまを何としてでも十字架にかけようとする民衆に、ささやかな抵抗を示すような言葉でした。でも、そんなピラトの意図したことを越えて、ピラトの言葉は、イエスさまによって表される、信仰的な現実を指し示す言葉となりました。まことの王として、救い主メシアとして、私たちのもとにやって来たイエスさまは、決して、暴力や大きな権力ですべての問題を解決することを望みませんでした。寧ろ、生身のその身体で傷つきながら、心をすり減らしながら、イエスさまは出会う人たちに神の愛や憐れみを示しました。その結果として、イエスさまは宗教的な指導者たちから反感を買い、逮捕され、命を落とすことになります。ヨハネは、そんなイエスさまの姿を見つめるようにと、私たちに促します。この人を見てください。傷ついて、血を流し、心をすり減らし、私たちの罪のために、死に向かって歩んでいったイエス・キリストを見てください。ここに、私たちを決して諦めない、神の愛が溢れています。

  • 2025年4月6日 四旬節第5主日

    説教題:聞いて、見つけてくださる神

    聖書: ヨハネによる福音書 9:35–41、出エジプト記 3:7–10、詩編 34、コリントの信徒への手紙 一 1:18–25

    説教者:稲葉基嗣

     

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    生まれつき目が見えない人が登場するこの物語は、当時のユダヤ社会の常識を否定し、覆すかのような形で幕を閉じます。物語のはじめに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰のせいか?」とイエスさまに尋ねた弟子たちの発言とは真逆のことをイエスさまはファリサイ派の人たちの前で伝えました。 「見えない者であったなら、罪はないであろう。しかし、現に今、『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る。」(41節)ファリサイ派の人たちは目が見えない人は罪人であり、イエスさまも罪人であるという偏見に基づきながら、この出来事に関わりました。だから、彼らは目が見えるようになった人やイエスさまのことを知ろうとも、この二人と真剣に向き合おうともしませんでした。だから、イエスさまを通して、目が見えない人に神が手を差し伸べた時、イエスさまの働きを神が行ったものとして見つめることができませんでした。彼らのこのような言動を問題視し、告発することは物語の主軸ではありません。この物語は目が見えるようにされた人とイエスさまにスポットを当てています。イエスさまは目が見えるようになった彼が会堂から追放されたと知った時、また再び、ユダヤ社会から彼が排除されようとしている時、彼のために動き出し、彼を探して見つけ出し、彼に手を伸ばしました。それは、まさに、イエスさまがどのような方なのかを私たちに示す出来事でした。旧約聖書の時代、エジプトでの重労働に苦しんでいた、イスラエルの民の叫び声に、神は心動かされ、彼らを救い出すために動き始めました。同じように、ユダヤの会堂から追い出されて、居場所を失い、途方に暮れていたであろう、目が見えるようになった彼のことを聞いた時、イエスさまはまさに憐れみに心が動かされ、彼を探し出したのだと思います。イエスさまを信じる人びとの交わりの中に彼を受け止めるために、イエスさまは彼を探し出したのです。そのようにして、私たちを神のもとに招き、そして、教会という交わりの中に招き続けてくださっているのが、私たちの救い主であるイエスさまの姿です。私たち教会は、私たちのことを見つけ出してくださるイエスさまとの出会いやイエスさまと共に生きることを心から喜び、その喜びを分かち合う交わりです。イエスさまが私たち一人ひとりと出会い、共にいてくださっているということは、イエスさまは私たち自身を通しても、私たちのそばにいる誰かを見つけ、出会おうとしているということです。

  • 2025年3月30日 四旬節第4主日

    説教題:小さな声に耳を傾け続ける

    聖書: ヨハネによる福音書 9:24–34、サムエル記 上 16:1–13、詩編 32、コリントの信徒への手紙 一 1:26–31

    説教者:稲葉基嗣

     

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    当時のユダヤの宗教的な指導者たちは「イエスというあの男は罪人なんだ。そうだろ?さぁ、正直に言いなさい」といったような口ぶりで、目が見えるようになった人がイエスさまのことを罪人と証言するように促しました。けれども、目が見えるようになった人は、彼らの言葉に同意しません。彼は、自分が経験した確かな事実を伝えると、彼らから尋ねられます。「どうやってあの人は、あなたの目を開けたのですか」(26節)。実は、彼らからこのように尋ねられたのは、これが初めてではありませんでした。この福音書の中で記録されている限りでは、これが3度目の問いかけです。ですから、彼は皮肉交じりに、何度も同じ質問をしてきた彼らに抗議します。「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(27節)この抗議の声は、ユダヤの宗教指導者たちの問題が明らかになった瞬間でした。それは、聞かない、耳を傾けないという問題です。彼らが望んだ、イエスさまを罪人だと証言するような言葉ではなかったから、目が見えるようになったこの人の言葉は、彼らには届きませんでした。「お前は全く罪の中から生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と最終的に彼は伝えられ、追放されます。ユダヤの宗教指導者たちは自分たち自身の差別意識や偏見を明らかにし、この人の言葉を真剣に聞こうとしていない自分たちの姿勢を明らかにしています。その上、彼らは目が見えるようになった人から教えられることは望んでいません。寧ろこの物語においてこの人は、ユダヤの宗教指導者たちにとって、イエスさまについての不利な証言を引き出すための道具のように扱われています。このような姿勢は、何もユダヤの宗教指導者たち特有の問題ではありません。偏見に基づいたレッテル貼りや、他人を道具のように扱うことは、この世界の至る所において見受けられるものではないでしょうか。だからこそ、彼らの姿勢は、私たち自身やこの世界の抱える問題です。そんな私たちやこの世界のために、主イエスは私たちのもとに来てくださいました。イエスさまは、どれだけ拒絶されようとも、人びとと向き合い続ける方でした。ユダヤ社会の小さな、小さな声に耳を傾け続けました。そんなイエスさまの姿を見て、イエスさまのように生きたい。社会的な立場や、血縁や、貧富の差など関係なく、お互いに、手を取り合いたい。小さな声に耳を傾け続けて、誰にとっても、安心して集える場所であり続けたい。そんな思いを、夢を持ち続けているのが、教会という信仰共同体です。

  • 2025年3月23日 四旬節第3主日

    説教題:神が望む共同体のあり方とは?

    聖書: ヨハネによる福音書 9:13–23、出エジプト記 20:8–11、詩編 130、ヘブライ人への手紙 4:9–11

    説教者:稲葉基嗣

     

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    共同体というものを考える上で、現代に生きる私たちと古代の人びとの間にある大きな違いは、選択の自由がどれほどあったかです。私たちの前にはいくつかの選択肢があって、私たちはその中から選び取って、関わる共同体を決めますし、合わないと感じたら他のものを選ぶことも可能です。けれども、イエスさまが生きた時代の人たちにとって、彼らが関わるコミュニティは、選択の結果ではありません。自由に変更できない、自分たちの所属するコミュニティでの人間関係はとても大切なものでしたし、できるかぎり円滑に進めていかなければなりません。嫌になったら、じゃぁ、別のコミュニティに行こうといったものではないからです。イエスさまの生きた時代のユダヤ人たちにとって、「会堂」または「シナゴーグ」と呼ばれる場所は、とても重要なコミュニティでした。そこは単に、ユダヤ人たちが神を一緒に礼拝するためにあるだけの場所ではなく、同じ地域に住むユダヤ人との交流の場であり、結びつきの象徴でもありました。イエスさまが起こした奇跡によって目を見えるようにされた人の両親は、ファリサイ派の人たちのことを恐れていたと、ヨハネは記録しています。それは、もしもイエスという人が救い主メシアだというような発言をしたならば、会堂から追い出される可能性があったからです。会堂追放は、ユダヤ人たちの社会から仲間外れにされることも意味していました。そのような事態は、どうにかして避ける必要のあるものでした。だから、両親は、自分たちの息子が目に見えるようになったことについて、ファリサイ派の人たちから尋ねられても、はっきりと答えませんでした。本人に聞いてくださいと伝えるだけでした。けれども、今度は、彼らの息子が追放の危険に晒されることになってしまいました。恐れに支配されるとき、私たち人間の集まりであるコミュニティは、誰かを排除してしまう、そんな私たち人間が抱えている現実をヨハネ9章の物語は私たちに指摘しているかのようです。恐れに支配され、恐れに反応して形作られていたコミュニティの中にあって、イエスさまは目が見えない人に手を差し伸べました。それは、恐れに基づいて他者を排除することではなく、愛や憐れみに基づいて他者を受け止める行為でした。恐れではなく、誰もが安息を手にすることができるコミュニティを目指したから、イエスさまは目が見えないこの人に手を差し伸べたのでしょう。私たちは神が与える安息を完全に手にしているわけではありません。だから、すべての人にとっての安息の実現を祈り求め、信仰の旅を続けています。

  • 2025年3月16日 四旬節第2主日

    説教題:泥を塗りつけてください

    聖書: ヨハネによる福音書 9:1–12、創世記 2:4–7、詩編 6、コリントの信徒への手紙 二 4:6–7

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ヨハネによる福音書で「エゴー・エイミー」(「私です」という意味)というフレーズは、イエスさまの自己紹介で何度も使われています。この福音書においてただ一例(9節)を除いて、ご自分の存在を明らかにするイエスさまの発言のみにこのフレーズは使われています。ヨハネはなぜ、目が見えるようになった人のこの物語の中でのみ、「私です」という言葉をイエスさま以外の人が用いた様子を描いたのでしょうか。弟子たちは、目が見えない人本人か、その両親に大きな問題があったから、この人は目が見えない(2節)と、この人を偏見の目で見つめていました。近所の人たちも、「目が見えない」「物乞いをしている」ということだけで、この人のことを認識していました。目が見えないことによって、この人が何者であるのかが周囲の人びとの間で決定づけられてしまいました。イエスさまによって目を開かれた出来事は、目を開かれた人にとって、新しく生きる道が開かれることに繋がりました。イエスさまは目が見えない人の目に泥を塗りつけ、この人の目を開くことを通して、人びとが彼に抱く偏見や彼に押し付けてくるイメージから彼を解放しました。周囲の人びとやユダヤの文化が彼に押し付けてきた、罪人や汚れた人、物乞いといったその状態はイエスさまとの出会いを通して、彼から取り去られます。そして、彼は「私です」と言って、ありのままの自分自身の姿をさらしだしました。このとき、イエスさまが取ったその方法は、目に泥を塗りつけることでした。この行動は、創世記2章に記されている人間の創造を思い起こさせます。人は、土の塵から形作られ、神に命の息を吹きかけられて生きる者とされました。私たちが何者であるのかを決定づけるのは、他人からの評価でも、この社会や家族の声でも、私たち自身が積み上げてきた功績でもありません。神があなたを造り、あなたに命を与えた。神があなたを神の子とされた。これが、私たち一人ひとりを決定づけるものです。だからこそ、イエスさまはあのとき、目に見えない人の目に泥を塗りつけ、新しく生きる道を備えました。どうかきょうも、これからも、私たち自身が生きる限りこの身に引き受けてしまう、偏見や思い込み、私たち自身から自分らしさを奪っていく様々な出来事に、イエスさまが泥を塗りつけてくださいますように。何度も、何度でも、私たち自身が何者であるのかをイエスさまが思い起こさせてくださいますように。私たちは神に命の息を吹きかけられて生きる、神の子どもです。

  • 2025年3月9日 四旬節第1主日

    説教題:神の国の予告編である教会

    聖書: ローマの信徒への手紙 14:13–23、イザヤ書 65:17–20、詩編 100、マルコによる福音書 10:32–34

    説教者:石田学

     

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    教会は、楽しみ、喜ぶことができる場所でなければなりません。神の国がそうであり、教会は神の国のしるしであり予告編だからです。でも、見たこともない「神の国」をどうやって知るのでしょうか。聖書には神の国がどのようなものかを物語る記述が多くあります。その一つイザヤ65:17−20は神の国を高らかに歌い上げています。  見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。  代々とこしえに楽しみ、喜べ。神の国が神によって創造される「新しい天と新しい地」だということは、神の国はこの世界での幸福や成功や繁栄ではないということです。しかし、わたしたちはこの世界で神の国と無関係でもありません。神の国はこの世界に対して断絶し閉ざされているわけではないからです。神がこの世界に、神の国のしるしを与え、もたらしてくださるからです。祝福の約束として、苦難の民を救い出すことで、預言者の幻をとおして。そして神のひとり子主イエスによって神の国を地にもたらすことによって。そうであれば、わたしたち神の民は、神の国がどのようなものかを知り、信じ、望み、楽しみにしながら、ふさわしく生きたいとねがうはずです。教会はそのような人々の集いであり、共に世を旅する仲間であり、多様な人々であっても、神の国の到来を待ち望むことにおいて一つですから。教会は神の国そのものではありませんが、神の国のしるし、予告編です。神の国そのものを味わえなくとも、その香りを楽しむことのできる所です。もし、教会が苦痛で、喜びがなく、楽しむことができないとしたら、教会は本来のあるべき姿と違ってしまっていることに原因があるでしょう。教会に集うわたしたちはただの・普通の人間にすぎません。この世界の常識や価値観に侵略され、批判し合い、裁き合ってしまいます。パウロはローマのキリスト者に神の国のしるしを生きなさいと告げるのです。むずかしい理屈や知識ではなく、キリストの愛と平和を生きることによって。パウロは「もう互いに裁き合わないようにしよう」と呼びかけます。その方法は、自分と違う考えや習慣の人を裁かず認め、受け入れることです。自分は自分らしく、他の人はその人らしく自由に生きることができる。誰もが、わたしは自由だ、自分らしくいて喜び合えるのだと実感することが、教会は神の国のしるしであり予告編であることの証です。でも、自分たちが快適だというだけの楽しみ・喜びであってはなりません。教会は、つまりわたしたちは、神の愛、憐れみ、正義を生き、神の国の平和を作ることを楽しみ喜ぶことでも、神の国のしるしだからです。

  • 2025年3月2日 公現後第8主日

    説教題:主イエスを拒絶する世界

    聖書: ヨハネによる福音書 8:48–59、出エジプト記 3:13–15、詩編 23、ヨハネの手紙 一 2:28–3:3

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ユダヤの宗教的指導者たちは、イエスさまの活動や発言を知って、イエスさまがどんな人物なのか興味を持ちました。はじめのうちは、イエスさまがどんな人物なのかを知るために、純粋に疑問を投げかけています。けれども、彼らはイエスさまと対話を重ねる中で、「悪魔に取り憑かれている」「お前はサマリア人だ」と、イエスさまのことを徐々に非難するようになりました。宗教指導者たちのイエスさまに対する向き合い方は、そのような非難の言葉や敵対心で留まるものではありませんでした。最終的に、彼らの間に、イエスさまに対する殺意が沸き起こってきました。イエスさまの一連の発言が神を冒涜しているものとして受け止められたからです。この決定的な拒絶の瞬間に至るまでに、彼らのイエスさまに対する発言は、徐々に厳しいものになっています。結局のところ、自分たちの結論に合う形でしか、イエスさまの言葉を聞くことができなくなっていたのではないでしょうか。そう考えると、ユダヤの宗教指導者たちがイエスさまを拒絶した原因は私たちにもよく理解できる問題であると気付かされます。私たちだって、自分の耳に心地よい言葉を聞いていたいものです。自分の価値観に合う考えを聞いていたいものです。これまでの自分の考え方や生き方を否定し、過ちを認めることが必要になるため、考え方や生き方を変えることは、とても辛いことです。私たちにとっての大きな希望は、イエスさまは拒絶されることをわかっていたのにも関わらず、それでも、イエスさまが私たちのもとに来て、私たちと共に生きることを選んでくださったということです。この世界のやり方とは、真逆の、見返りを求めない愛を伝えるために、神の愛と憐れみを伝えるために、イエスさまは来てくださいました。そして、自分の都合の良いように、世界を暴力で塗り替えることが平然と行われているこの世界に、イエスさまは来てくださいました。権力や暴力によって向かう方向性が決められる世界のあり方ではなく、すべての人への憐れみに基づく世界のあり方をイエスさまは示しています。何度拒絶されようとも、私たちを諦めずに、受け止め続けるイエスさまの愛や憐れみは、私たちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。それは、神との絆と、共に生きる人たちとの関係性の土台を形作ります。

  • 2025年2月23日 公現後第7主日

    説教題:神のもとで、私たちは何者なのか?

    聖書: ヨハネによる福音書 8:37–47、創世記 18:1–8、詩編 95、ヘブライ人への手紙 11:8–16

    説教者:稲葉基嗣

     

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    私は時々、何かものを書く時に自分のプロフィールを書くことを求められます。大抵の場合、生まれた年や出身地、これまでの経歴、趣味などを書いています。このような情報は、私が何者であるのかを伝えることができるものだと思います。イエスさまが生きた時代のユダヤの人びとにとって、父親の名前が重要でした。彼らの社会は、家長である父親を頂点とするコミュニティだったからです。自分が誰の子であるのかは、どのコミュニティに所属しているのかだけでなく、自分の民族的な出自を明らかにするものでした。ヨハネによる福音書が紹介する、ユダヤ人たちとイエスさまの論争の中で、アブラハムの子(子孫)という言葉が登場し、この言葉が問題となっています。ユダヤ人たちの民族的な背景が、アブラハムの子孫であることは、まったくその通りだとイエスさまは認めています。一方で、イエスさまは「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業を行っているはずだ」(39節)と言って、彼らの行動の方に目を向けました。民族的な面でのアブラハムとの結びつきではなく、信仰的な生き方として、アブラハムの子どもらしく生きているのかをイエスさまはここで問いかけました。イエスさまを殺し、自分たちにとって不都合な者を排除することを企む彼らは、アブラハムの信仰に倣うような行いをしていないと、イエスさまは訴えました。この時、イエスさまが心に浮かべたのは、突然訪ねてきた3人の旅人たちをアブラハムがもてなした場面です(創世記18章)。アブラハムの信仰的な生き方に倣おうとするならば、旅人を受け入れ、神が遣わしてくださった人たちを受け入れることでしょう。けれども、ユダヤの宗教指導者たちは、神が彼らのもとに遣わしたイエスさまを煙たがり、イエスさまへ殺意を抱き、排除を企てていました。そうすることによって、彼らは自分たちの生き方は、アブラハムの子とは呼べるものではないことを露わにしました。だから、イエスさまは彼らが、アブラハムの子として生きていない現実を強い言葉を用いて指摘したのでしょう(44節)。イエスさまの目的は、彼らが悪そのものだと断定することにはありません。アブラハムの子として歩み直してほしいと願い、強い言葉を語ったのでしょう。信仰において、私たちは天の御国を目指す旅人であるという点において、私たちもアブラハムと同じ旅人です。私たちが旅人であり続けることがきっと、この世界で助けを必要としている他の旅人たちを思う想像力を育み、彼らに手を差し伸べるきっかけや行動を生み出すことでしょう。アブラハムが旅人をもてなしたように。

  • 2025年2月16日 公現後第6主日

    説教題:自由への招き

    聖書: ヨハネによる福音書 8:31–38、出エジプト記 1:8–14、詩編 146、ガラテヤの信徒への手紙 4:6–7

    説教者:稲葉基嗣

     

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    弟子とは、どのような存在なのでしょうか。弟子は技術や学問を身に着けるために、先生や師匠と一緒に過ごす人たちです。時には先生の行動を通して、また時には先生の言葉を通して学びます。弟子は自分の先生のように生きようとします。先生の言葉を自分の血肉とし、師匠の技術を身体に染み込ませ、自分自身の一部にしようとします。イエスさまの弟子であるためには、イエスさまの言葉に留まることが必要です。自分の先生であるイエスさまの語った言葉を何度も何度も思い起こして、その意味を考え続けて、そして行動に移していく。それがイエスさまにとっての弟子のあるべき姿のようです。イエスさまと直接会うことができた人たちだけでなく、現代に生きる私たちも、イエスさまに似た弟子となることを目指して歩み始めることができます。弟子として生きることは、決して、私たちの個性が否定されることではありません。むしろ、私たち一人ひとりの生き方を助け、更に豊かにするものです。たとえば、イエスさまが私たちに人を愛する方法を教えてくださっているから、自分が当たり前だと思う愛し方以外の方法があることを知ることができます。イエスさまと対話をしていた人びとは、イエスさまの弟子となることを通して自由となるという言葉に反発しました。彼らの言い分は、自分たちはアブラハムの子孫だから、誰かの奴隷になったことなどない、です。彼らが自分たちは自由であると主張するのは、政治的な理由ではなく、精神的な理由からでした。けれども、イエスさまは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」(34節)と言います。誰もが等しく、常に、罪の支配の中にあるからです。誰かを愛そうと願っても、自分のことばかりを優先してしまいます。どれだけ平和的に生きようと願っても、暴力的な言葉や行動を引き起こしてしまうことがあります。それが私たちやこの世界の現実です。イエスさまは、私たちのそのような現実をよくわかっているから、私たちにイエスさまの弟子として生きるように招き続けています。イエスさまのこの招きは、私たちが罪の支配から自由になるためです。罪はもはや私たちを支配しません。イエスさまの弟子として歩む時、キリストの愛や憐れみこそが、私たちの存在全体を覆うからです。

  • 2025年2月9日 公現後第5主日

    説教題:命の光をもたらすために

    聖書: ヨハネによる福音書 8:21–30、エゼキエル書 18:21–32、詩編 130、ローマの信徒への手紙 6:15–23

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ユダヤの宗教指導者たちがイエスさまと対話した様子をヨハネは記録しています。この時の彼らの関心は、イエスさまが誰であるかでした。イエスさまが救い主メシアであるかどうかを見定めるために、彼らはイエスさまと対話を積み重ねました。「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」とイエスさまは3度も彼らに語っています(21, 24節)。かなり強烈な響きを持つ言葉だと思うのですが、中心的に取り扱われていません。イエスさまのこの言葉はあまり真剣に掘り下げたくはない言葉かもしれません。誰だって、自分の抱える問題とは、できれば向き合いたくないものですから。けれども、「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉は、私たちを取り囲んでいる現実をとてもよく言い表している言葉に思えます。罪と聖書が言うのは、私たちと神との関係が適切ではないことです。それは、私たちが神の思いを踏みにじり、神の愛や憐れみに生きるのではなく、自己中心と自己正当化の中で生きることです。また、私たちと共に生きる人たちや、この世界と私たちとの間の関係が傷つき、壊れた状態であることをいいます。私たちは嫌というほど、自分をはじめ、すべての人が抱える罪に直面しています。いじめ、差別、ハラスメント、社会制度の改悪、終わらない戦争、難民や移民として生きざるを得ない人たちの権利や尊厳の侵害、自然災害などは、私たち人間が抱える罪の目に見える結果です。まさにイエスさまが指摘したように、私たちは誰もが、自分たち人間の罪に巻き込まれ、傷つけられながら生き、そして罪の内に死んでいくかのようです。このような私たちの現実を真剣に受け止めているから、イエスさまは「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬことになる」と語ったのでしょう。けれども、それは私たちに自分たちの生きる現実を突きつけ、自分たちでは解決不可能な罪の現実に絶望させるためではありませんでした。イエスさまこそ、罪の内に死へと向かうこの世界とそこで生きる私たちに、命の光をもたらすために、神が私たちのもとに送ってくださった方です。それは、罪の赦しと新しい命に生きる希望の光です。イエスさまはその生涯をかけて、私たちに神の愛と憐れみの内に生きる道を示してくださいました。イエス・キリストは、私たちといつも共に生きることを選んでくださった神です。罪のうちにあって、命をすり減らし、この命をお互いに傷つけ合ってしまう私たちが命の道を歩んで行くことができるよう、常に私たちの旅に伴ってくださる方です。

  • 2025年2月2日 公現後第4主日

    説教題:どんなに闇が深くても

    聖書: ヨハネによる福音書 8:12–20、イザヤ書 42:5–7、詩編 36、エフェソの信徒への手紙 5:8–14

    説教者:稲葉基嗣

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    古代の人々にとって、太陽の存在は彼らの人生において頼りになるものでした。けれども、イエスさまは自分自身について語る際、太陽や太陽の光を比喩としては用いませんでした。イエスさまは自分自身が何者であるのかを伝えるのに、太陽が適切なモチーフだとは考えなかったのでしょう。太陽は一日の半分は隠れて、見えません。もしもイエスさまが太陽のような存在であると言うのならば、イエスさまはこの世界を暗闇が包む時、何の対抗手段を持っていないと伝えることになってしまうでしょう。それでは、イエスさまは一体どのような意味を込めて、「私は世の光である」と語ったのでしょうか。ヨハネによる福音書は、イエスさまのこの言葉を古代イスラエルの人びとが荒野を旅し、生活をしていたことを思い起こし、記念するお祭りである、仮庵祭の文脈の中に置いています。このお祭りの初日の終わり頃に、神殿の庭で、4つの金の燭台に火が灯され、お祭りに参加している人びとは歌い、そして踊りました。この祭りの日に燭台の炎は、エルサレム神殿全体を照らし、エルサレムの町にその光を届けました。仮庵祭の初日に、火が灯されるイベントは、古代イスラエルの荒野の旅を神が火の柱によって導いたことを思い起こさせました。イエスさまの言葉は、仮庵祭の間、もしくはその直後に語られているものです。ということは、「私は世の光である」と語ったイエスさまが意図していることは、太陽のような光ではなく、かつて神がイスラエルの人びとに与えたような光です。暗闇に包まれる世界の中でも、決して消えることなく、私たちの傍らで燃え続け、この世界を照らし続ける光であると、イエスさまは私たちに語りかけています。この世界の闇が深いものだと実感すればするほど、私たちはイエスさまが与えてくださっている光がとても小さいものだと勘違いしてしまいますが、イエスさまは「私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」と宣言されました。どんなに闇が深く思えても、私たちはイエスさまが共にいる限り闇の中ではなく、光の中を歩んでいるとイエスさまは私たちに伝えています。私たち自身は光そのものにはなれませんが、それでも、イエスさまが私たちと共に歩んでくださることを通して、私たちは光り輝くことができます。イエスさまの愛や憐れみは、私たちを通してこの世界に届いていきます。

  • 2025年1月26日 公現後第3主日

    説教題:教会とは何か

    聖書: ローマの信徒への手紙 14:1–12、イザヤ書 56:7、詩編 124、ルカによる福音書 21:25–28

    説教者:石田学

     

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    人間関係は、いつでもどこでも、どんな共同体でもむずかしいものです。     性格の違い、意見や考えの違い、ものごとの手順の違い、自己主張の度合い・・。 しかし最大の衝突原因は、「正しさ」の対立ではないでしょうか。誰もが自分の正しさを持っていて、それで他の人を評価し、時に裁きます。逃れることのできない共同体なら、対立や不愉快さも我慢するでしょう。国家や地域、職場や学校などの共同体は、よほどでない限り逃げられません。でも、趣味や楽しみ、ボランティアなどの自主的な共同体は違います。嫌になればやめてしまったり、嫌な相手をやめさせたりもするでしょう。教会はどうでしょうか、教会はそのような任意の共同体なのでしょうか。教会を離れることはその人の考え、気持ち次第で自由にできることです。だが、教会はその程度のサークルかと問われたら、断じて違うはずです。教会はキリストによりあがなわれ、神の民とされた者の群れだからです。この根源的価値を共有するが、聖人の群れではなく人間の共同体でもあります。考えや意見が違い、性格も人格も異なる、罪びとである人々の集いです。自分の信じる正しさを掲げて、時として互いに裁き、見下す人々の集会です。それはすべての教会の現実で、ローマ教会も例外ではありませんでした。ある人々が「信仰の弱い人」と見なす人たちを見下し裁いていたからです。ローマで「信仰の弱い人」と見下されていた人々には事情がありました。異教の神殿で犠牲に捧げられた払い下げ肉は汚れていると考え、肉を食べると穢れてしまうことを恐れて信仰のゆえに肉食を避けたのでした。何かを食べたら穢れるなど愚かしいと考える人々は彼らを見下していました。逆に、肉を食べない信念の人は食べる人を無節操だと裁いたのでした。どちらもが自分の正しさで相手を量り、互いに相手を非難し攻撃していました。パウロはそのような人々に「信仰の弱い人を受け入れなさい」と説きます。信仰の強い人に寛容を求めているかのようですが、そうではありません。何を食べるか食べないかを信仰と結び付ける誤りを否定したのでした。信仰は自分を高めたり他の人を裁くためのものではないからです。食べるのも主のため、食べないのも主のため、主のためという目的は同じ。信仰者は皆、キリストをとおして神に受け入れられています。その事実の前には、他のどのような違いも価値観も無に等しいのです。教会はその事実を共に喜び祝い、共に主に感謝し神をたたえる共同体です。わたしたちが共に捧げる礼拝は、その事実を共に表し共に体験する行為です。教会とは何か、第一の定義は「共に礼拝を捧げる神の民の群れ」。礼拝を共に祝う限り、わたしたちは互いを喜び受け入れ合う神の民の群れです。

  • 2025年1月19日 公現後第2主日

    説教題:なぜ主イエスは地面にものを書いたのか?

    聖書: ヨハネによる福音書 8:1–11、列王記 上 3:16-28、詩編 42、ローマの信徒への手紙 3:21-26

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ヨハネが描く物語を想像してみると、何かおかしい事に気づかないでしょうか。ひとりの女性が姦淫の罪を犯したその現場で捕らえられて、イエスさまのもとに連れて来られました。現場を抑えられているのに、相手の男性がいません。それは不自然さと同時に、女性の立場の危うさを感じさせます。彼女を連れてきた人たちは、イエスさまの前で彼女の罪を訴え、彼女をどのように裁いたら良いのかについて、イエスさまに問いかけました。この女性にどのように律法を適用するべきかを悩んでいたわけではありません。それは、イエスさまに問いかけることによって、彼らはイエスさまのことを試して、イエスさまを訴える口実を手にするためでした。ということは、彼らの目的は、彼女を裁くことそのものにはありませんでした。ただ、彼女の犯した罪を利用して、イエスさまを罠にかけたい。イエスさまに尋ねてきた彼らにとって、彼女はイエスさまを貶めるための道具でしかありませんでした。イエスさまは、このような彼らの言葉に何も答えず、地面に何かを書き始めました。わたしにはこのイエスさまの姿は、女性を利用して、イエスさまを罠にはめようとする人びとの姿勢に対する抗議のように見えます。しつこく問い続け、イエスさまを罠にかけることを諦めない彼らに「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)とイエスさまは告げることによって、この問題に自分を巻き込むことをやめさせます。石を投げるかどうかという問題は、訴える者と彼女の関係に切り替わります。自分には罪がないと言う人も、罪があると認める人も、一度石を手にとって、自分自身の心の内や普段の歩みを見つめ直さなければいけませんでした。また、イエスさまを訴えるために、彼女をただ利用している事実と向き合わなければならなかったでしょう。彼女にとって大きな問題であったのは、自分が道具とされていることでした。誰も彼女の罪をきちんと見つめ、彼女と向き合ってくれる人はいませんでした。だからこそ、きちんと自分と向き合い、語りかけてくれる、イエスさまの言葉に彼女はどれほど慰めを受けたでしょうか。人を道具のように扱い、時には利用し、時には石を投げつけることは、わたしたちが生きる社会の中で何度も何度も起こっています。だからこそイエスさまはわたしたちのもとに来て、わたしたちと共に生きることを選んでくださいました。

  • 2025年1月12日 公現後第1主日

    説教題:驚きに満ちた旅

    聖書: ルカによる福音書 2:41–52、サムエル記 上 2:18-21、詩編 126、コリントの信徒への手紙 一 13:8–13

    説教者:稲葉基嗣

     

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    エルサレムで、7日間かけて過越祭をお祝いしたマリアとヨセフは、お祭りの高揚感や楽しげな騒がしさ、滞在中の喜ばしかった出来事などを思い返し、余韻に浸りながら、帰路についたことでしょう。物語はここで大きなトラブルの到来を告げます。 どういうわけか、イエスさまの姿はどこにも見当たりませんでした。急いで荷物をまとめて、マリアとヨセフは来た道を戻ることにしました。彼らは親としての欠けを感じ、自分自身を責め、涙を堪えながら、来た道を必死に探し回りながら、引き返したのではないかと想像します。 過越祭を祝う、喜びに満ちたその旅は、このトラブルによって一転し、辛く、悲しい旅へと変わってしまいました。そのトラブルは思いも寄らない形で終わりを告げました。3日後に彼らはイエスさまを神殿で見つけますが、イエスさまは驚いたことに、律法の専門家たちと一緒に座っていました。安心した一方で、マリアはもう二度とこのようなことが起こらないことを願って、 「なぜ、こんなことをしてくれたのです」とイエスさまを注意します。けれども、イエスさまからは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」と、予想外の言葉が返ってきました(ルカ2:49)。「父の家」と訳されている言葉は、「父の事柄」や、「父に属する人びと」と訳し方もできるため、イエスさまは自分がいるべき場所を神殿という場所に限定して伝えているわけではないのでしょう。この時のイエスさまにとって、神殿という場所で、律法を学ぶ人たちとともに、神の言葉を学ぶことこそが、神の事柄であり、神の望む働きでした。イエスさまのこの行動が、イエスさまにとってどれほど重要であったのか、両親は知る由もありませんでしたが、マリアはこの出来事を心に留めることにより、この旅のトラブルにおいて、イエスさまが何を伝えたのかを記憶しました。それは、彼女の中でイエスさまの存在が救い主として変わるときに、徐々に意味を持ち始め、象徴的な意味を持ち始めたと思います。わたしたちも形は違えども、ヨセフやマリアと同じように、信仰の旅の途上で、トラブルに巻き込まれることがあります。マリアが心に留めていたイエスさまの言葉は、このような旅を歩むわたしたちにイエスさまが関わってくださっていることを示しているかのようです。わたしたちがトラブルを抱えるときも、思いがけない神の働きを示し、驚きを与えながら、イエスさまはわたしたちの旅に伴い続けてくださいます。

  • 2025年1月5日 降誕節第2主日

    説教題:あなたが必要です

    聖書: ルカによる福音書 2:22–40、イザヤ書 57:14–21、詩編 133、ガラテヤの信徒への手紙 6:14–18

    説教者:稲葉基嗣

     

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    この物語は、イエスさまが産まれてから40日経った後の出来事を描いています。ルカはイエスさまのために行われたいけにえを捧げる儀式ではなく、この家族がエルサレム神殿で出会った人たちに注目をしています。シメオンとアンナという高齢のふたりの男女は、赤ちゃんイエスさまを見つけると喜び、イエスさまについて話し始めました。他の親と何も変わらない40日間を過ごしていたため、天使が自分のもとに現れた出来事や羊飼いたちが訪れたことの意味は、マリアとヨセフの中で影を潜めていったことでしょう。だからこそ、シメオンとアンナの反応には、驚かされたことでしょう。自分たちからは何も伝えていないのに、シメオンは、「この目で神の救いを見た」と神をたたえ、喜んでいるのです。それを聞いていた女預言者アンナも、仲間たちと一緒に喜び始めました。イエスさまがどのような存在であるのかを思い起こすために、マリアとヨセフにとって、シメオンやアンナは必要な存在でした。なぜ赤ちゃんイエスさまを見て、シメオンはメシアだと確信できたのでしょうか。ルカにとってその理由は、シメオンに神の霊の導きがあったからでした。聖霊が指し示した幼子は、ベツレヘムの飼い葉桶で寝たままではありませんでした。イエスさまは、マリアとヨセフによって、神殿に連れて来られました。その意味で、シメオンがイエスさまと出会うためには、神の教えに従い、神の導きを求めて行動するマリアとヨセフの行動が必要でした。このように、ルカが描くこの神殿での場面は、登場人物たちがお互いにお互いのことを必要としています。そのような光景がイエスさまを中心として、この物語の中で描かれています。それは何もルカによる福音書の中で終わる話ではありません。わたしたちだって、共に生きるお互いのことを必要としています。ルカの紡いだ物語は、神の霊である聖霊が、小さなピースを繋いで、お互いの必要を満たしてくれる光景を描いています。神の霊が、神の導きを求めて歩むわたしたちを豊かに用いてくださるのです。神が招いてくださる教会の交わりにおいて、わたしたちの間の誰もが、お互いに必要とし、必要とされています。そして、この世界には、この社会には、あなたが必要です。神の愛や憐れみに触れ、キリストの平和を携える、あなたが必要です。お互いに必要とし、必要とされているわたしたちを神の霊が結びつけ続けてくださいますように。