Afleveringen

  • 今年、生誕190年を迎える、世界的に有名なテキスタイル・デザイナーのレジェンドがいます。
    ウィリアム・モリス。
    その名を知らなくても、彼がデザインした「いちご泥棒」を一度は目にしたことがあるかもしれません。
    木々が生い茂る深い森を背景に描かれる、鳥といちご。
    日本人にも大人気のこの作品には、モリスの思いが色濃く、凝縮されています。
    彼が活動した19世紀のイギリスは、産業革命以後の華々しい技術革新と、工場の乱立。
    大量生産、大量消費に経済はうるおい、人々は、表面上、便利で快適な暮らしを手に入れました。
    しかし、内面はどうでしょう。
    あふれかえる物質にスペースを奪われ、深く息をすることすら忘れる毎日をおくっていたのです。
    モリスは、幼い頃見た風景を思い出しました。
    神秘的な森。
    そこには、解き明かされない秘密があり、ロマンがあり、未知への探求心がありました。
    煌々と照らされる電気により、全てが明らかに映し出される生活の中にこそ、「不思議な世界」が必要であると彼は説いたのです。
    大量生産による質の低下を恐れたモリスは、手仕事の刺繍や、手作りの椅子や調度品の復興を願いました。
    「生活の中にこそ、芸術は必要だ」
    そんな強い信念のもと、デザイナーに留まらず、詩を書き、社会主義活動に尽力し、世界をより豊かにするために、一生を捧げたのです。
    迷ったときは、いつも幼い頃愛した森を想起しました。
    ひとは、幼少期に見た原風景に癒され、守られる、そう信じていたのです。
    モダンデザインの父、ウィリアム・モリスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、生誕100年を迎える、日本を代表する作曲家がいます。
    團伊玖磨(だん・いくま)。
    先月、ニューヨークで開催された、日本の音楽文化を世界に広めるイベント「ミュージック・フロム・ジャパン2024年音楽祭」でも、團の『ヴァイオリンと弦楽四重奏のための2章 黒と黄』が演奏されました。
    彼の凄さは、作曲するジャンルの幅広さにあります。
    世界的に有名なオペラ『夕鶴』や、数々の交響曲に始まり、『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』などの童謡、さらには『ラジオ体操第二』、さまざまな学校の校歌など、多様な作品は、彼の音楽への姿勢の表れにも思えます。

    團の信条、それは「豊かな音楽で世界中をあたたかくしたい」というものでした。
    音楽は、自分が亡くなったあとも、何十年、何百年、残り続ける。
    どんな時代のひとにも、どんな年代のひとにも、何かひとつ、優しい灯(ともしび)を残したい。
    そう、願ったのです。
    そんな祈りにも似た願いは、もしかしたら、彼の幼少期の体験に根差しているのかもしれません。
    團が7歳のとき、祖父・團琢磨(だん・たくま)が、暗殺されたのです。
    1932年3月5日 午前11時半ごろ。
    東京日本橋三越本店近く、三井本館入り口で、待ち伏せていた血盟団のひとりに狙撃されました。
    自分を心底可愛がってくれた、大好きな祖父の末路。
    理不尽で、理解不能。
    幼い伊玖磨は、この世界に何が必要で何が足りないかを、繊細な心で感じ取っていたに違いありません。
    男爵の家系に生まれ、実業や政治の道が約束されていたにも関わらず、あえて親の反対を押し切り、音楽の道に進んだのです。
    彼には、最初から覚悟がありました。
    自分の仕事は、誰かを幸せにするものでなくてはならない。
    『パイプのけむり』というエッセイでも名を成した賢人・團伊玖磨が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • Zijn er afleveringen die ontbreken?

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  • 生涯、野に咲く花を愛し、描き続けた洋画家がいます。
    深沢紅子(ふかざわ・こうこ)。
    深沢は、堀辰雄や立原道造など、著名な作家の本の装幀や、童話の挿絵を手がけました。
    そして晩年は、絵画を通した児童教育にも積極的に取り組み、彼女の優しい目線は、現代にも継承されています。
    1925年、大正14年、紅子は、『花』『台の上の花』という2つの作品で、二科展に入選します。
    当時、女性の入選は珍しく、女流画家第一号誕生!と、大きな話題となりました。
    生まれ故郷、岩手県盛岡市にある、「深沢紅子 野の花美術館」。
    中津川のほとりに建つ、小さな美術館には、紅子と、夫で画家の深沢省三(ふかざわ・しょうぞう)の作品が展示されています。
    「深沢紅子 野の花美術館」は、長野県の軽井沢にもあります。
    紅子は、作家・堀辰雄と親しく、夏の間だけ、旧軽井沢にある、彼の別荘を借りていました。
    およそ20年に渡って軽井沢を訪れ、多くの作家と親交を深め、軽井沢の湖畔に咲く、野の花を描いたのです。
    「スワン・レイク」と呼ばれた、雲場池の周りを散歩するのが好きでした。
    時に、川端康成とも、湖畔を散策しました。
    寡黙な川端が、ふと立ち止まり、「これは、堀辰雄くんが好きだった樹木です」と言えば、紅子は、ささっとその樹をスケッチしたといいます。
    作家や詩人たちとの交流は、紅子の絵に、文学の香りをまぶし、一輪の花に、命の光と影を投影したのです。
    なぜ、彼女が野の花を描くようになったのか。
    10歳のとき、野に咲いていたカタクリの花が忘れられないと後に語っています。
    彼女が好んだのは、強いものより、弱いもの。
    華やかなものより、落ち着いたもの。
    にぎやかなものより、静かなもの。
    カタクリは、ひっそりと、でもたくましく咲き、紅子に、思い通りにならないこの世の生き方を教えてくれたのです。
    日本の女流画家の草分け、深沢紅子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 現在の岩手県久慈市出身の「柔道の神様」がいます。
    三船久蔵(みふね・きゅうぞう)。
    身長は160センチに満たず、体重は50キロ半ば。
    圧倒的に不利な体格で、講道館柔道の最高位、十段を授けられたレジェンドです。
    柔道の長い歴史の中、十段を取得したのは現在15名しかいません。
    ちなみに十段の帯は、黒帯の上、赤帯です。
    最近では3年前、1992年のバルセロナオリンピック、男子71キロ級で金メダルをとった古賀稔彦(こが・としひこ)が、数々の偉業をたたえられ、九段に昇格し、話題になりました。
    53歳で亡くなる、前日のことでした。
    九段、十段の赤帯は、ただ単に強さだけではなく、競技の普及や後進の育成など、柔道界への多大なる貢献が、昇段の決め手となります。
    三船久蔵は、小柄な体格ながら、新しい技を次々とあみだし、柔道というフレームを大きく伸ばし、拡大したのです。
    故郷の久慈市には、三船十段記念館があり、「若き日の三船久蔵」「三船久蔵と講道館」「三船と将棋」「三船と書道」というテーマに沿ってパネルが展示されています。
    さらに、圧巻は、彼が考案した「空気投げ」の貴重な映像。
    大きな相手をうまくさばき、タイミングを崩し、気がつけば相手が転がっているという、三船の必殺技です。
    資料館の隣には、柔道場も併設されており、彼の精神を受け継ぐ若き道場生が稽古にやってきます。
    三船には、流儀がありました。
    「大切なのは、心の中心をブレないようにすること」
    そのために彼は、65年間、たったの一日も稽古を休まなかったと言います。
    心の中心がブレていなければ、体重移動しても、ふらふらとよろけても、すぐに体勢を立て直すことができる。
    彼の流儀は、技ではなく、心の持ち方にあったのです。
    三船は、後輩たちに言いました。
    「相手に勝とうと思うと、相手の心が自分の中心を乱す。
    ほんとうの相手は、自分の中にしかいない」
    名人という称号を与えられた賢人・三船久蔵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 女子教育に一生を捧げた、花巻出身のレジェンドがいます。
    淵澤能恵(ふちざわ・のえ)。
    東北の寒村に生まれた彼女は、養女に出され、さびしい幼少期を過ごします。
    最初の転機は、明治12年、29歳のとき。
    鉱山技師のパーセルに女中として仕えていましたが、パーセル一家の帰国に同行して、ロサンゼルスにおもむくことになったのです。
    日本に帰ってからは、同志社大学で学び、その後、東洋英和、下関洗心女学校、福岡英和女学校など、日本各地で女子教育発展に尽くしました。
    次の転機は、明治38年、55歳のとき。
    海を渡り、韓国で女学校創立に邁進したのです。
    平均寿命が今ほど高くなかった時代。
    55歳の女性が韓国の地で新しい挑戦をするというのは、どれほどの覚悟と勇気が必要だったことでしょう。
    淵澤は、見事やり抜きました。
    日韓の橋渡しを成し遂げ、彼女が創設に関わった、首都ソウルの「淑明学園」の「淑明女子大学」は、世界に名立たる名門大学としてその名を馳せ、優秀な人材を輩出し続けています。
    女性蔑視や人種差別が激しかった時代に、逆風をものともせず、立ち向かった淵澤能恵。
    何が彼女を、そこまで駆り立てたのでしょうか。
    晩年、彼女の印象を尋ねると、みな一様にこう言ったそうです。
    「いつも、ニッコリ笑って、よく来たねえと抱きしめてくれました」
    淵澤が目指したのは、優しい力。
    暴力でも権力でもなく、優しさでひとや世界を変えていきたい。
    そんな願いが、今も全国、そして世界中に息づいているのです。
    岩手県が生んだ女子教育の聖母マリア、淵澤能恵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 関東大震災の帝都復興に尽力した、岩手県出身の政治家がいます。
    後藤新平(ごとう・しんぺい)。
    1923年9月1日に起きた関東大震災。後藤は66歳でした。
    おりしも、第二次山本内閣の組閣の最中で、後藤は、内務大臣 兼 帝都復興院 総裁に任命されます。
    首都東京、そして横浜を中心に多大な被害をもたらした、未曾有の地震と火災。
    後藤は災害に強い、未来の帝都を実現するため、速やかに復興計画書を作成しました。
    特に彼が重要視したのが、道路整備と緑地建設。
    東京から放射線状に延びる道路と、環状線として機能する道。
    南北軸を昭和通り、東西軸は靖国通り、環状線の基本には明治通りを配したのです。
    環境の保全や避難所の役割も果たす緑地政策では、隅田公園、浜町公園などを建設。
    現在の東京の基礎は、後藤が造ったといっても過言ではありません。
    岩手県奥州市立後藤新平記念館のホームぺージでは、彼が演説した肉声を聴くことができます。
    演説で力説しているのは「政治の倫理化」。
    腐敗した政治を一掃し、日々、不安や不満を感じる国民のために、精一杯尽くそうとする、彼の倫理観が前面に押し出されています。
    この記念館には、関東大震災当日と思われる直筆のメモ書きや、復興概念図が展示され、当時の切迫した空気感が、胸に迫ってきます。
    後藤の名言にこんな言葉があります。
    「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
    後年、彼は、ひとを育てることに心を砕きました。
    自分が一生のうちに培った、金、地位、知識や知恵、それらはお墓の中に持っていっても仕方がない。
    ならば、後進に伝えよう、譲ろう。
    それが後藤の提案であり、信念でした。
    ひとの人生ははかない。
    もし、それを有意義なものにできるとしたら、後の世のために、何が残せるかだと考えたのです。
    感染症対策に功績を残した医師であり、復興の神様でもあった、唯一無二の政治家、後藤新平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 岩手県に生まれた、望郷の歌人がいます。
    石川啄木(いしかわ・たくぼく)。
    わずか26年の生涯でしたが、彼が詠んだ歌は、今も多くのひとに読み継がれています。
    歌集『一握の砂』『悲しき玩具』が発表されてから110年以上が経ちますが、彼の歌が今もなお、私たちの心を揺さぶるのは、なぜでしょうか。

    はたらけど
    はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
    ぢっと手を見る

    この有名な歌が示すように、啄木は、従来の短歌にはない、ある2つの挑戦を行いました。
    ひとつは、3行、分かち書き。
    はたらけどで、改行。
    はたらけど猶わが生活楽にならざりで、改行。
    『一握の砂』『悲しき玩具』は、全ての歌が、3行で綴られているのです。
    これは、1910年に発表された、土岐哀果(とき・あいか)のローマ字歌集『NAKIWARAI』に影響を受けたという説もありますが、3行に区切られることで、啄木の思い、息遣いが聴こえてきます。
    もうひとつの試みが、従来の短歌が花鳥風月を題材にしたものばかりなのに対して、啄木は、日常の生活や、日々感じる哀しみや不満を歌にしたことです。
    彼が、自由に歌を詠みたいと考えた背景には、彼を取り巻く、理不尽な境遇があります。
    啄木は、『歌のいろ/\』で、こう記しました。
    「私自身が現在に於(おい)て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅(わずか)にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐ(い)なものである」
    生まれながらの虚弱体質。貧困。
    故郷を追われ、挙句の果てには、せっかく勤めていた小学校や新聞社が火事で焼けてしまう。
    何一つ、思い通りにいかない人生。
    理不尽に対抗する手段が、歌でした。
    歌を自由に詠むことは、彼にとって、唯一の抵抗だったのかもしれません。
    孤高の天才歌人、石川啄木が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 京都大学の名物教授で、数多くのエッセイを書いた文筆家としても有名な、数学者がいます。
    森毅(もり・つよし)。
    東京大学数学科を卒業後、北海道大学の助手になり、29歳で京都大学で教鞭をとってから34年間、独特の語り口やユーモアあふれる授業で人気を博しました。
    63歳で大学を退官後、多くの大学からオファーを受けましたが、全て断り、フリーランスとしてエッセイや評論を書き、積極的にマスコミにも顔を出し、数学の楽しさ、人生のよりよき生き方を指南。
    多くのファンに愛されました。
    森が提唱したものに、『人生20年説』というのがあります。
    まずは過去の遺産で生きるのはやめよう、20年前の自分は、赤の他人。
    そう考えれば、人生が80年とすれば、ひとは、4回生まれ変わることができる。
    これは楽しい。ワクワクする。
    第一の人生でつまずいても、大丈夫。
    次の20年をまっさらな気持ちで生きればいい。
    60歳を迎えたとき、森が下したのは、大学を去り、自由な大海原に漕ぎ出そう、という決断でした。
    そしてそれを支えているのは、あえて孤独を恐れない、ということ。
    京都の東山三条に、古い宿屋がありました。
    そこには、年老いた犬が一頭いました。
    犬は、いつもひとりで悠々と道を渡ります。
    旧国道一号線。
    どんなにクルマが通っても、急がず、動じず、堂々と渡ります。
    その様子を見た森は、これだと思ったのです。
    「みんなで渡れば怖くない」ではなく、「ひとりで渡れば危なくない」じゃないか、と。
    たったひとりの、犬。
    彼を見たドライバーは、クルマを停め、微笑んで彼が道を渡るのを見届けます。
    これがもし、何匹もの犬が、おどおど、ビクビクして渡っていたら…。
    ドライバーは、つい、クラクションを鳴らしてしまうかもしれません。
    ひとりだから、認められる。ひとりだから、カッコいい。
    おのれの生き方でよりよい人生を指南した賢人、森毅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年、生誕100年を迎える、伝説の大女優がいます。
    高峰秀子(たかみね・ひでこ)。
    1924年3月27日生まれの彼女の「高峰秀子生誕100年プロジェクト」は、昨年10月から始まり、今年もさまざまな企画が目白押しです。
    彼女が愛した「きもの展」、エッセイでも綴られた、美学をひもとく展示や写真展。
    もちろん、出演した映画の上映会も多数予定されています。
    戦前の無声映画の時代、5歳で銀幕デビューを果たしてから、およそ50年間、300本以上の作品に出た高峰は、今も多くのファンを魅了してやみません。
    また、エッセイストとして、多くの本を執筆。
    軽妙で含羞と含蓄があふれる筆運びは、時代に色あせることなく、健在です。
    4歳のとき、結核で母を亡くし、父の妹に養子に出された高峰。
    5歳で、いきなり映画の世界に放り込まれ、以来、自分が役者としての素養があるやなしやの自省するいとまもなく、ひたすら走り続けてきたのです。
    5歳のとき、いきなり参加した映画のオーディションに合格。
    お金を出してでも我が子を映画に出したいというお金持ちが多い中、高峰の出演作は絶えません。
    男の子の役までも、頭を丸刈りにされて依頼がきてしまう。
    養母は、まわりからずいぶん嫌味を言われ、いじめられたといいます。
    子役の役者に多額の出演料がもらえることはなく、暮らしは、貧しく、質素。
    養父は全国を飛び歩く興行師、養母は内職をしていました。
    そんな中、京都の賀茂川のほとりから撮影所に通うのは楽しかったと、エッセイに書いています。
    撮影所では、駄々をこね、お菓子をもらったり、多くの大人たちと遊び、誰にでも可愛がられました。
    ほとんど学校にも行けず、眠い目をこすりながら撮影所に通う日々。
    そんな幼い高峰の心には、自分を育ててくれている母に、何か役に立つことをしたいという思いが、ささやかに、でも確実に芽生えていったのです。
    戦前戦後を駆け抜けたレジェンド・高峰秀子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 2022年の『朝日新聞 be on Saturday』5月14日号の「今こそ!見たい日本映画の巨匠」読者ランキングで、黒澤明、小津安二郎を抑え、1位に輝いたレジェンドがいます。
    伊丹十三(いたみ・じゅうぞう)。
    『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』など、独特のユーモアやペーソスで社会問題をくるんだ傑作を、世に送り出しました。
    伊丹が映画で大切にしたこと、それは、次の3つでした。
    「びっくりした」「面白い」「誰にでもわかる」。
    世の中で何が流行っているかには、全く関心を持たず、常に「自分の好奇心」というアンテナだけを信じて企画を考え、細部にこだわり抜き、普遍的なエンターテインメントに仕上げたのです。
    51歳にして、初の監督デビュー作となった映画『お葬式』。
    妻・宮本信子の父親の葬儀を伊丹が仕切ることになった体験を反映しています。
    突然の肉親の死に翻弄される夫婦の3日間を描いたこの作品で、いきなり日本アカデミー賞最優秀作品賞など、多くの賞を獲得しました。
    偉大な映画監督・伊丹万作(いたみ・まんさく)を父に持つ十三は、自分は映画監督になることはないと思っていましたが、お葬式の火葬場で、立ち昇る煙を見たとき、ふと自分が小津安二郎の映画の中にいるような錯覚に陥りました。
    そのとき「あ、これ、映画になるかもしれない…」、そう思ったと後に語っています。
    伊丹の監督ぶりは、決して声を荒げたり、上から圧をかけるようなものではなく、ただひたすら「はい、もう一回」「うん、そうだな、もう一回やってみましょう」とダメ出しを続けたのだといいます。
    自分のイメージが明確にあり、揺るぎないビジョンが存在する。
    それを支えているものが、好奇心というアンテナにひっかかった、日々の何気ない日常の中にある、人間のささいな行動やしぐさ。
    伊丹は、常に自分の好奇心を羅針盤にして、創作に向き合ってきたのです。
    映画監督のみならず、俳優、作家、イラストレーターなど、マルチな才能で時代を駆け抜けた賢人・伊丹十三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 生涯でただ一つの長編小説『源氏物語』を書いた、平安時代中期の歌人がいます。
    紫式部(むらさきしきぶ)。
    紫式部は、本名ではなく、父・藤原為時(ふじわらのためとき)が式部省の役人だったことに由来する、いわばペンネーム。
    平安時代は、女性の名前が正確に記録されることはなく、当初は、藤原氏出身ということで「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。
    それがどのような経緯で紫式部になったのかは、諸説あります。
    生まれ育った京都の紫野からとった、という説、藤の花の色から、という説、そして『源氏物語』の紫の上からつけられた、という説など、さまざまです。
    世界最古の長編小説と言われている、『源氏物語』。
    その唯一無二の作品は、名立たる有名作家に訳されてきました。
    「紫式部は私の12才の時からの恩師である」と語った与謝野晶子。
    円地文子(えんち・ふみこ)は、現代語訳をするためだけに、専用のアパートを借り、5年半かけて完成させました。
    瀬戸内寂聴もまた、『源氏物語』を訳するためにマンションを購入、人生を賭けて対峙したのです。
    近年では、角田光代さんによる現代語訳も大きな話題となりました。
    海外でも早くから翻訳が進み、1966年には、日本人として初めて、ユネスコの「偉人年祭表」に加えられました。
    なぜ、それほどまでに人は『源氏物語』に魅せられるのでしょうか。
    およそ500人もが登場する、全54帖の大長編では、天皇家に生まれた光源氏の恋愛模様を中心に、宮廷でのさまざまな出来事、権力闘争が描かれます。
    性格の違う女性を描き分ける筆力はもちろん、光源氏の哀しさや、人生に対する深い洞察は、千年の時を越えて、私たちの心の湖に大きな石を投げるように、幾重もの波紋を呼び起すのです。
    平安時代、文学作品を書けるのは、御后や子どもたちが暮らす後宮に勤める、女房と呼ばれた女性でした。
    紫式部が、女房文学の頂点に立つことができた理由とは?
    そして、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今週は、特別編。
    私、長塚圭史が、長野県の「ホクト小諸きのこセンター」に、yes!を探す旅に出かけたルポルタージュです。
    そこには、想像を超える工場の風景や、きのこを愛する熱い人たちのドラマがありました。

  • 常に弱者の視点に立ち、『サスケ』『カムイ伝』などの名作を遺した、漫画家のレジェンドがいます。
    白土三平(しらと・さんぺい)。
    白土にとって、長野県上田市真田町で暮らした少年時代は、自身の稀有な作風の原点だったと、のちに回想しています。
    光文社の漫画雑誌『少年』に、1961年から1966年まで連載され、アニメ化もされた『サスケ』。
    江戸時代、甲賀流の少年忍者・サスケが、さまざまな刺客と闘いながら成長していく様を描いた傑作ですが、絵柄の子どもらしさとは対照的に、登場人物たちは、理不尽に、そして残酷に切られ、死んでいきます。
    そこに救いはなく、哀しさと寄る辺なさだけが余韻として残るのです。
    彼のライフワークになった『カムイ伝』は、階級差別を受ける出自を持つ主人公が、冷酷な社会に対峙しながら、自然の猛威にも翻弄され、「食うために生きぬく」姿を描いた、名作です。
    白土は漫画の中に、当時では珍しい、解説を差し込みました。
    少年たちは、それを読み、枯れ葉を集め、雲隠れの術を真似たのです。
    忍者たちが切り合った場面を画いた後、どんなふうに刀を使ったか、スローモーションで見てみましょうと、刀さばきも解説しました。

    戦時下、中学生の時に都会から長野に疎開してきた、白土少年。
    彼の父が、「日本プロレタリア美術家同盟」に属する画家だったことも重なり、中学での扱いは決して優しいものではありませんでした。
    配給の長靴はもらえず、彼は片道2時間かかる雪道を、藁草履で通い続けたのです。
    さらに白土少年を驚かせたのは、過酷な自然との闘い。
    イノシシを解体する様子を間近で見ました。
    ひとは、平気で差別し、階級をつくる。
    ひとは、生きるために、獣をさばき、野山をめぐる。
    この体験は、彼の心に深く刻まれ、生涯、忘れることはありませんでした。
    戦国の世の無常を描いた、唯一無二の漫画家・白土三平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 昭和の音楽界を華やかに彩った「シャンソンの女王」がいます。
    越路吹雪(こしじ・ふぶき)。
    現在、NHKの朝の連続テレビ小説のモデルと言われる、「ブギの女王」・笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)の、10歳年下。
    宝塚音楽歌劇学校に入れなかった笠置とは違い、越路は、長野県飯山高等女学校在学中に、宝塚に合格。
    男役トップスターとして、戦中、戦後を駆け抜けました。
    しかし、入団当初、そのふるまいは、破天荒で規格外。
    同期だった、美貌の月丘夢路、才能の乙羽信子に対抗するかのように、喫煙、飲酒に、門限破り。
    ついたあだ名は「不良少女」だったのです。
    トップに登り詰める欲もなく、ただ淡々と日々を過ごしていた越路。
    ただ、ダンスだけは大好きで、レッスン場で人知れず練習していたと言われています。
    背が高い彼女は男役として舞台に立ちますが、最初は目立つ存在ではありませんでした。
    転機は、19歳のときの舞台『航空母艦』。
    水兵役の彼女が甲板で浪花節『清水次郎長』をうなるシーン。
    美しいハイトーンではなく、いきなり渋い浪花節。
    客席はどよめきから拍手に、やがて大喝采に変ったのです。
    越路の存在を世間に知らしめるワンシーン。
    実は、この舞台のために、彼女は浪曲師・広沢虎造のレコードを擦り切れるまで聞き込んでいたのです。
    他の人と比べると、足りないものばかりが目に入る。
    そんなとき、彼女がとった行動は、「枠をはみだす」ということでした。
    真正面からぶつかっていてはかなわないのであれば、自分は自分のやりかたで、努力し、学んでいく。
    そうして彼女は、トップスターへの階段を上って行ったのです。
    『愛の讃歌』で知られる唯一無二のエンターテイナー、越路吹雪が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 坂本九が歌い、一世を風靡した名曲『上を向いて歩こう』を作詞したレジェンドがいます。
    永六輔(えい・ろくすけ)。
    『上を向いて歩こう』は、1961年、NHKの音楽バラエティ番組『夢であいましょう』の今月の歌で初披露するや、またたく間に大ヒット。
    3か月連続ヒットチャート1位を記録。
    さらに『SUKIYAKI(スキヤキ)』とタイトルを変え、アメリカ、ビルボードのヒットチャートで3週連続1位の快挙に輝きました。
    時は安保闘争真っただ中。
    永は、放送作家の激務の合間をかいくぐって、デモに参加します。
    あまりに熱心にデモに参加するので、テレビ局のディレクターから、「キミは、仕事とデモ、どっちが大事なんだ?」と責められます。
    永は、「デモです」と即答。
    そのまま番組を降りたという逸話が残されています。
    終戦後、目覚ましい復興を遂げた日本でしたが、再び、戦争の影が忍び寄っているのではないか、永は、繊細な感性で怖れを感じたのです。

    終生、反戦、反権力を訴えた彼は、「本当に戦争に関わるのはよそう。戦争を手伝うのもよそう。どっかの戦争を支持するのもよそう。それだけを言い続けていきたい」と話しました。
    『上を向いて歩こう』の歌詞には、彼の二つの強い思いが込められているように感じられます。
    ひとつは、安保闘争に敗れた悔しさ、怒り、それでも生きていこうとする決意。
    もうひとつは、戦時中の幼少期、疎開先の長野県で感じた思いです。
    親元を離れ、ひとりで通学する夜道。
    ひとりぼっちが身に沁みます。
    さびしい、つらい。
    こらえても、後から後から涙がこぼれてくる。
    涙を止めることができないのなら、せめて、上を向いて歩こう。
    それはどこか、永の人生観にも通じます。
    彼の優しさは、涙を流すなとは言いません。
    人生は理不尽で、思うようにならない苦難の連続。
    唯一、それに打ち勝つには、歩くのをやめないこと。
    涙がこぼれないように、上を向いて。
    軽妙な語り口と鋭い視点で多くのひとを魅了した、唯一無二の賢人、永六輔が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 年末の風物詩、通称『第九』を作曲した、音楽家のレジェンドがいます。
    ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
    交響曲第9番がウィーンで初演されたとき、ベートーヴェンは54歳で、このとき彼の耳は、ほとんど聴こえなかったと言われています。
    初演のときに曲が終わっても気づかず、隣の女性が客席を振り向かせたとき、聴衆が立ち上がり、激しく拍手をしている姿を見て、初めてこの曲の成功を確信しました。
    第九は、新しい試みに満ちています。
    70分にも及ぶ演奏時間の長さは、当時、破格でした。
    のちに、CDの最長録音時間がおよそ74分に設定されたのは、この第九を一枚に収めるためだったという説があります。
    これまで使われていなかった打楽器、シンバルやトライアングルなどの導入、さらに最も世間を驚かせたのは、第4楽章の合唱です。
    4人の独唱と混声合唱団が歌うのは、ドイツの詩人、シラーの『歓喜に寄せて』。
    しかし、歌いはじめのフレーズは、ベートーヴェンが自ら作詞したものなのです。
    「おお、友よ!この音色ではない!
    そうではなくて、我々をもっと心地よい世界に導く、喜びにあふれた音色に、心をゆだねよう!」
    そうではない、という否定から入る歌詞。
    実は、第4楽章の合唱に入る前にも、ベートーヴェンは、第1楽章から第3楽章までの全ての主題を否定します。
    自らが奏でた調べを全否定してからの、歓喜の歌。
    最後にして集大成の、ベートーヴェン、交響曲第9番がなぜ全世界のひとに愛され続けるのか。
    そこには、これまでの自分を否定し、さらなる高みを目指す戦いの軌跡があったのです。
    56歳でこの世を去った音楽界の至宝、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ロマン派音楽を大きく飛躍、大成した、ロシアの音楽家がいます。
    セルゲイ・ラフマニノフ。
    ラフマニノフと言えば、2014年のソチ・オリンピックで、浅田真央のフリー演技で流れた楽曲『ピアノ協奏曲第2番』を思い出すひとがいるかもしれません。
    前回大会のバンクーバーで、オリンピック史上女子初となる、3回転アクセルを成功させ、堂々の銀メダル。
    今大会こそは金メダルだと、日本の期待を一身に背負ったオリンピックでした。
    しかし、ショートは、まさかの16位。
    失意の中、フリーでどんな演技を見せるのか。
    ほぼノーミスの圧巻の演技は、ラフマニノフと共にありました。
    今年生誕150年を迎えるロシアのレジェンドは、生前、非難にさらされることの多い作曲家でした。
    天才の呼び声が高かったラフマニノフは、22歳のときに、自分の人生を賭けた大作に挑みます。
    『交響曲第1番 二短調』。
    2年後の24歳のとき、ペテルブルクで初演されますが、これが、記録的な大失敗に終わったのです。
    奇しくも、浅田真央がソチ・オリンピックに出場したのが、24歳のときでした。
    ラフマニノフが魂を込めて作った曲は、批評家から酷評され、コンサート会場では、途中で席を立つ者までいました。
    一説には、指揮をしたグラズノフの失態が原因と言われていますが、全ての非難の矛先は、作曲者に向かいます。
    この『交響曲第1番』は、ラフマニノフが生きている間は、二度と演奏されませんでした。
    この失敗で彼は、神経衰弱に陥り、作曲ができなくなってしまいます。
    ピアノに向かうと、手がふるえ、譜面を見ると、吐いてしまう。
    そんな彼を必死に励ましたのが、16歳年上のロシアの文豪、アントン・チェーホフでした。
    チェーホフは、手紙に書きました。
    「言いたいやつには、言わせておけばいい。
    私が書いた『かもめ』も初演はさんざんなものだった。
    でも、2年後は大絶賛。
    わからんもんだよ 世間なんて。全ての軸は自分の中に持てばいい」
    挫折を繰り返しながら名曲を世に送り出したレジェンド、セルゲイ・ラフマニノフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 今年11月2日、『ナウ・アンド・ゼン』という最後の新曲を世界同時発売した、伝説のロックバンドがあります。
    ザ・ビートルズ。
    オフィシャル・ミュージック・ビデオは、カセットデッキに、あるテープがセットされるところから始まります。
    このカセットテープに、40歳のとき銃弾に倒れた、ジョン・レノンの歌声が録音されていたのです。
    最新のAI技術を駆使し、デモテープから歌声だけを抽出。
    そこに81歳のポール・マッカートニー、83歳のリンゴ・スターの声を重ね、58歳で亡くなったジョージ・ハリスンの歌声と演奏を加えました。
    「時々、キミがいなくて、さみしい」
    「時々、ボクたちは、スタート地点に戻らなくてはいけない」
    そう歌うジョンの声はせつなく響きます。
    この新曲の裏ジャケットに使われた時計のエピソードが話題を呼んでいます。
    ジョージ・ハリスンの妻、オリヴィアの話。
    それは…昔、ジョージが時計店に入ったときのこと。
    壁にかかっていた時計に目を止めます。
    家をモチーフにした壁掛け時計には、はめこまれたアルファベットで、「NOW」と「THEN」の文字がありました。
    ひと目でそれが気に入ったジョージは、壁から時計をはずしてもらい、購入したのです。
    彼は自宅にロシア風の小屋を建て、そこに時計を飾りました。
    なんと25年間、時計はそこで時を刻んでいたのです。
    ジョージ亡きあと、妻のオリヴィアは、ふと思い立ち、その時計を綺麗にして、暖炉の上に置きました。
    とそこへ、一本の電話がかかってきたのです。
    ポール・マッカートニーからでした。
    「カセットテープに録音された歌があるんだけど」
    それが…『ナウ・アンド・ゼン』でした。
    そのとき今は亡き、ジョージ・ハリスンも、今回の新曲リリースに参加していたのです。
    今も伝説を創り続けるロックバンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • ピアノ音楽に革命をもたらした、ポーランドの天才作曲家がいます。
    フレデリック・ショパン。
    自身も優れたピアニストとしてその名をとどろかせたショパン。
    彼が創る楽曲は、そのほとんどがピアノ曲で、これまでになかった美しく哀しい旋律や新しい表現形式にふちどられ、彼は、『ピアノの詩人』と呼ばれています。
    華々しい功績の影で、そのわずか39年の生涯は、孤独と病魔との闘いでした。
    さらに財力のない自分に不安を覚え、常にお金を稼がねばならないという強迫観念に追われていたと言われています。
    1810年、ポーランドのワルシャワに生まれたショパンの、最初の大きな挫折は、20歳の時。
    音楽の都、ウィーンでの生活が始まり、本格的な音楽家の道を歩もうとした矢先でした。
    1830年11月。故郷ワルシャワで起こった、武装蜂起。
    当時、ワルシャワ公国は、ロシア帝国の支配下にありました。
    しかし、7月のパリ革命を契機に独立の機運が高まり、ついにふるさとは、戦場と化したのです。
    愛するポーランドが、心配でならないショパン。
    一緒にウィーンにやってきた親友のティトゥスは、兵士になる決意を胸に、すぐに帰国しますが、体の弱いショパンは、父から、こう告げられます。
    「おまえは体が弱い、こっちに帰ってきてはダメだ。
    おまえには一流の音楽家になる使命があるんだ。
    神様からのギフトを持っている者は、それを使い、ひとびとを幸せにする責任がある。
    こっちは、大丈夫だ。
    ただ、ポーランドはいつだって、おまえの味方だ。
    安心して、がんばりなさい」
    ショパンは、悩み、自分を責めます。
    故郷の愛する家族、大切な人々が苦しんでいるときに、自分は、ここにいていいのか。
    さらに、誰も後ろ盾がいないウィーンでの孤独。
    ウィーンの人々は、ワルシャワ蜂起をよく思っておらず、ポーランド出身のショパンへの態度は、冷たいものでした。
    やがて、ショパンは心を病んでいきます。
    それでも彼は、ピアノに向かいました。
    ピアノだけが、彼にとって唯一のよりどころであり、生きる意味だったからです。
    ピアノに一生を捧げたレジェンド、フレデリック・ショパンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

  • 印象派、象徴派と言われ、独自の世界観を切り開いた、フランスの作曲家がいます。
    クロード・ドビュッシー。
    今年3月に亡くなった坂本龍一は、ドビュッシーを敬愛していたことで知られています。
    新潮文庫の自伝『音楽は自由にする』では、中学2年生のときに、初めて弦楽四重奏曲を聴いたときの衝撃が綴られています。
    自分自身をドビュッシーの生まれ変わりではないかと考えたことがあったと語り、その傾倒ぶりがうかがえます。
    毎年行われるクラシックコンサートで、必ずといっていいほど、全国のどこかで演奏される、ドビュッシー。
    彼の音楽の何が、ひとびとを魅了するのでしょうか。
    ドビュッシーは、こんな言葉を残しています。
    「私は、スペシャリストになりたくない。
    自分を専門化するなんてバカげている。
    自分を専門化してしまったら、それだけ、自分の宇宙を狭くしてしまうんだ。
    みんなどうしてそのことに気がつかないんだろうか」
    ドビュッシーは、自分を枠にあてはめられることを嫌がりました。
    伝統的な奏法を無視したことで、彼が発表する曲の評価は、安定しませんでした。
    高評価があるかと思えば、演奏中に観客が帰ってしまうほどの不評もあり、社会的な成功は、なかなか得られません。
    内向的で頑固な気質と、女性にのめりこむ性格。
    音楽院の教師や音楽出版の編集者など、周囲のひとたちは、扱いづらい芸術家に、手を焼いていました。
    それでも、ドビュッシーは、前に進むことをやめません。
    ガムランの響きに感動し、絵画や文学にインスパイアされ、唯一無二の音楽世界を求めたのです。
    その結果、昨年生誕160年を迎えた彼の音楽は、後世に多大な影響を与え、ガーシュウィン、デューク・エリントン、マイルス・デイビスなど、ジャズ界においても、彼の格闘の歴史は引き継がれていったのです。
    創っては壊し、壊しては創ることをやめなかった賢人、クロード・ドビュッシーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?